日本工具製作(現・日工)の歴史⑧
社名を「日工株式会社」へ改称し、さらなる新製品の開発と増産体制の強化に注力
昭和33(1958)年7月頃から、わが国は「岩戸景気」と呼ばれた好景気に沸き、文字通り高度経済成長期に突入した。これを反映して土木、道路、港湾工事の伸長に加えて、昭和34(1959)年9月26日に紀伊半島に上陸した伊勢湾台風の災害対策補正予算の実施もあって日本工具製作の製品の販売は急増し、輸出も順調に推移した。とりわけ建設機械は各種工事の増大により、アスファルトプラント、バッチャープラント(コンクリートプラント)、コンクリートミキサなど大型機械の注文が増加した。
昭和36(1961)年3月、同社は新三菱重工業(現・三菱重工業)と業務提携し、パイルハンマーフレームの製造を開始した。パイルハンマーフレームは土木業界から嘱望されていたもので、試作を実施したところ予想以上の良好な性能が示されたことから量産体制に入ることになったものである。
昭和34(1959)年5月に開催されたIOC総会において昭和39(1964)年の第18回オリンピックの開催地に東京が選ばれたことにより、建設業界ではオリンピック関連の建設投資が大きな牽引力となり、高速道路など公共事業が活発化した。東海道新幹線の起工、首都高速道路公団の発足など大規模なプロジェクトが目白押しとなり、加えて地下鉄工事、ニュータウンなどの大型宅地造成工事、石油コンビナートの建設、さらにゴルフ場建設ブームなどの追い風を受けて建設工事が急増し、建設機械は一層重要視されるようになった。
昭和36(1961)年5月、こうした状況下において、同社は大型建設機械を製造する新工場の建設が必要となったため増資(資本金2億円 → 3億円)を実施し、明石市大久保町江井島の約10万㎡の土地を新たに購入し昭和37(1962)年6月1日、新工場(江井島工場)の第1期工事が完了した。
昭和37(1962)年5月1日、同社は江井島工場建設資金に充当する目的で資本金を5億円へ増資し、増資払込完了と同時に東京証券取引所第一部への上場を果たした。
同社は江井島工場の稼働に伴い他の工場の整備を順次進め、さらなる新製品の開発と増産体制の強化に注力していった。昭和37(1962)年3月、わが国初の全自動40トンアスファルトプラントを完成し、昭和38(1963)年5月には自動式バッチャープラントの1号機を完成した。また、昭和37(1962)7月にはパイプサポートの製造、翌昭和38(1963)11月にはパイプ足場の製造、12月には枠組み足場の製造を開始するなど仮設機材の製造へも進出していった。
昭和37(1962)年11月15日、矢野松三郎社長は多年明石商工会議所会頭として適切な運営に努め、よく産業発展に貢献した功績により藍綬褒章を受章。昭和40(1965)年11月3日には勳五等に叙せられ双光旭日章を受章し、重ね重ねの栄誉に輝いた。
東京オリンピックが開催された翌昭和40(1965)年には大企業が倒産し証券会社が経営危機に陥るなど、いわゆる「昭和40年不況」が到来したが、土木建設業界だけは「新道路5箇年計画」などの大規模な公共投資が続き、変わらず好調であった。
昭和40(1965)年11月から昭和45(1970)年7月にかけて、「いざなぎ景気」と呼ばれた神武景気や岩戸景気を超える好景気が続き、昭和43(1968)年には国内総生産(GNP)が西ドイツを抜いて世界第2位となった。
こうした状況下の昭和41(1966)年7月、同社は全自動バッチャープラントの製造を開始し、同年10月には伸鉄工場を廃止しベルトコンベヤの製造を開始した。昭和41(1966)年4月には江井島工場の第3期工事が完了し、同工場の全容が整った。
同社はその後も開発・建設ブームに対応するため昭和42(1967)年1月には150トンの完全遠隔操作によるアスファルトプラントを開発し、同年6月にはアスファルトプラントの付属設備としてアスファルト合材を貯蔵する合材サイロの製造を開始した。砕石機械の製造にも着手し、昭和43(1968)年6月に第1号機を完成した。
海外への展開も進み、昭和42(1967)年にはバッチャープラント16基をフィリピンに輸出したのを始め、タイにハイウエー建設用のアスファルトプラントを輸出、アルゼンチンには日本企業として初めて大型アスファルトプラント2基を輸出した。
昭和43(1968)年2月1日、創立50周年を翌年に控えた同社は社名を日本工具製作株式会社から「日工株式会社」へ変更した。当時の同社の事業内容は従来のショベル、ツルハシ等の工具類の製造から建設機械、さらにはパイプサポート、組立足場などの仮設機材、ベルトコンベヤ等の製造へと着々と体質改善が進展し、これら新分野の製品が生産量の70%を超えるまでになっていた。
従来の社名ではこうした幅広い業容を表現しきれないほか、さまざまなマイナス面が多かったため、社名改称に至ったものである。なお、新社名「日工」はすでに同社の愛称・略称として関係先に浸透していた名称でもあった。
同社は創業以来、社訓として「堅忍奮闘」「熟慮断行」が長年にわたって社内に浸透し、この社訓の精神によって同社の繁栄が築かれてきた。しかし、創立50周年を迎えるに当たり、時代に即した精神を盛り込んだ新しい表現による「社是」を制定することになった。制定に当たり全従業員から社是を募集したが、秀作ばかりで1カ月におよぶ選定作業でも決定することが出来ず、最終的には矢野社長に創作を依頼することになった。
その結果、次の社是が決定した。
1.企業を通じて社会に奉仕する
1.誠実と責任感をもって繁栄に邁進する
1.創意工夫改善に努め適正利潤をあげる
※現在、この「社是」は「経営理念」(お客様第一主義)および「行動規範」とともに、総称して「日工グループ企業憲章」として定められている。
昭和44(1969)年11月3日、同社創立50周年記念式典が簡素ながら厳粛に挙行された。昭和43(1968)年から実施中の改善合理化運動が進行中で工場が工事中であったことから、招待客を迎えることが出来ないため、社内のみの行事として明石市立衣川中学校にて執り行われた。この式典において、矢野社長自身の手によって墨痕鮮やかに揮毫された社是が披露された。
昭和45(1970)年1月15日、同社が2年前から進めてきた経営合理化を目的とした改善活動の一環として取り組んできた第一工場の第三工場および外注先等への集約作業が完了した。
その後、敷地面積1万1,304㎡・建坪5,663㎡、半世紀にわたって同社の屋台骨を支えてきた第一工場は、技術革新の新時代に対処するため相次いで取り壊され更地となった。昭和45(1970)年3月23日には第一工場集約の付帯措置として、第一工場西側に道路を隔てて置かれていた本社事務所を江井島工場に移転した。