日本工具製作(現・日工)の歴史⑨
創立100周年の節目を迎え、さらなる飛躍を目指して挑戦を続ける
昭和47(1972)年1月29日の定時株主総会において、社長の矢野松三郎が日工の会長に就任し、専務の八巻信郎が社長に就任した。同社は、矢野が実に半世紀以上にわたって経営の最前線に立ち、経営の舵取りを担ってきたが、以後は矢野の後を継いだ八巻新社長を始めとする新しい首脳陣の下で従業員全員一丸となって激動の時代に挑み前進することとなった。
昭和48(1973)年2月15日、創立50周年(昭和44年8月)を記念して当時の矢野社長から受けた寄付を原資として建設が予定されていた、矢野の功績を顕彰する福利厚生施設「矢野記念館」が竣工した。
矢野記念館の竣工から5日後の昭和48(1973)年2月20日、前年8月以来入院・治療を続けていた矢野会長が、全社あげての祈りも空しく記念館の竣工を待っていたかのように帰らぬ人となった。
矢野松三郎は17歳の時に鈴木商店に入社し、鈴木商店傘下の日本金属彦島精錬所用度課主任、本店工事部用度課長、日本金属大里製錬所経理部長を経て大正9(1920)年2月1日、27歳の時に急死した奥田良三の後を受けて日本工具製作の代表取締役専務に就任し、昭和14(1939)年12月28日に第3代社長に就任すると、以後32年2カ月(専務時代から数えるとおよそ52年)にわたり会社を牽引し続けた。昭和47(1972)年1月以降は会長として同社発展のために力を尽した。
矢野は社業以外にも明石商工会議所会頭・顧問、明石市自治体警察の公安委員長ほかの要職を務め、地域のためにも尽力した。こうした功績が認められ、昭和37(1962)年に藍綬褒章を、昭和40(1965)年には勳五等に叙せられ双光旭日章を、昭和48(1973)年には紺綬褒章を受章し、死去とともに正六位を追叙された。昭和48(1973)年3月1日、明石市市民会館において社葬が執り行われ、参列者とともに最後の別れを惜しんだ。
昭和45(1970)年に開催された大阪万国博覧会をピークに高度経済成長期が終焉を迎えると、昭和48(1973)年秋の第1次オイルショックにより、同社は1975(昭和50)年11月期決算で上場以来初の経常赤字を計上すると、続く2期も赤字となり無配を余儀なくされた。
この事態を受け、同社は生き残りをかけて地域に密着したきめ細かな販売活動を展開するため、昭和51(1976)年6月以降、全国各地に次々と駐在事務所を開設するとともに、昭和52(1977)年2月には共存共栄を目指し、代理店・メーカーが一体となって販売活動を推進する代理店組織「トンボ会」を設立した。
昭和53(1978)年3月、第2次オイルショックに見舞われたもののほどなく立ち直った同社は、米国企業との技術提携を交えて技術革新をはかり、ドラムミキシングアスファルトプラント(ドラミキ)やリサイクリングユニットなど時代のニーズに応える有力製品を次々に開発していった。また、電子制御システムやコンベヤシステムなど新事業分野を積極的に開拓していった。
昭和60(1985)年9月の「プラザ合意」以降、超金融緩和による急激な内需拡大策がとられたわが国はいわゆる「バブル経済」に突入した。内需の拡大とともに公共投資の増加に伴って道路整備予算も大幅に増大し昭和61(1986)年以降、アスファルトプラントの市場は100億円を突破する。同社は引き続き建設機械部門が好調に推移し、生産性向上やコストダウンに努めたことと相まって昭和62(1987)年度以降、大幅増収増益となった。
平成2(1990)年3月、政府の金融引き締め策が発表されるやバブル経済はもろくも崩壊し、民間設備投資や個人消費は急速に冷え込みデフレスパイラルに陥った。この間、同社は平成2(1990)年から翌年にかけて営業網の整備を進め、全国的な規模で営業拠点の移転・開設を行った。
平成2(1990)年、同社は良き伝統を受け継ぎながら、新しい足跡を確実なものにしていくため、"トンボの日工" のイメージ戦略の核となる新しいシンボルマーク、ロゴマーク、ロゴタイプを制定した。
「美しく豊かな地球の自然と環境を大切にしながら、明日の国土開発に取り組む日工の新たな姿勢を示す」というデザインコンセプトの下、シンボルマークは"N"の頭文字をモチーフとし、シンプルかつバランスよくリニューアルしたトンボのイラストを配して、大空に向かって飛び立つイメージのデザインとした。
平成4(1992)年9月、同社は平成6(1994)年開港予定の関西国際空港主要滑走路などの舗装工事の開始に備えて「アスファルトプラント現地組立工事」プロジェクトチームを立ち上げ、同社製NAP-3000(高速道路用大型アスファルトプラント)4台を駆使し、工事完了までに70万トンの合材全てを製造した。
平成9(1997)年2月、同社は国内市場が伸び悩む中、新たな市場を開拓すべく台北支店(現地法人名「日商日工開発工程股份有限公司台北分公司」)を開設し、平成13(2001)年4月26日には中国現地法人「日工(上海)工程机械有限公司」を設立するなど、中国・台湾を中心に海外事業を一段と強化・拡充していった。
平成10(1998)年2月、環境問題への関心が世界的に高まる中、同社は環境事業部を設置し、プラントエンジニアリング技術を基盤として環境にやさしい最先端プラント・装置の開発に乗り出した。
その後も同社を取り巻く環境は、建設関連業界においても景気の低迷と国・自治体の緊縮財政が需要を直撃し、厳しい局面が続いていた。このような状況下において平成19(2007)年4月1日、同社は実効ある社内体制を整備し、企業価値を高めることを目的として「日工グループ企業憲章」を制定した。
この憲章は「社是」(*)、「経営理念」(お客様第一主義)、「行動規範」の総称で、日工グループの姿勢や役員・社員一人ひとりが日々の事業活動を行う上での指針となるものを表明することで事業活動が社会と調和し、厚い信頼を得て一層の社会的責任を果たしていこうとするものである。
(*) この社是は、同社が創立50周年(昭和44年8月13日)を迎えるに当たり、当時の矢野社長自ら創作し決定されたもの。
平成23(2011)年3月11日、東日本大震災が発生した。同社は復興事業の本格化に伴って増大する需要に迅速に対応するため、技術・工事・メンテナンスサービス・販売の人員を東北支店に動員するとともに支店事務所を拡張し平成24(2012)年1月1日に「震災復興プロジェクト」を発足させた。
プロジェクトメンバーは同年6月まで半年間の予定で東北支店に常駐し、オール日工で取り組む体制を整え、「モノづくりを通じて震災復興に貢献する」をモットーにアスファルトプラント、バッチャープラント(コンクリートプラント)を始めとする日工製品およびサービスの提供に全力を傾注した。
その後、政府の景気刺激策や建設投資が活発化したこともあり震災復興関連事業や公共事業・民間建設投資が大きく伸び、同社の製品は販売・メンテナンスともに伸長し、大幅増収基調となった。
令和元(2019)年8月13日、同社は創立100周年の大きな節目を迎えた。現在の日工株式会社はアスファルト、コンクリートプラントのパイオニア・トップメーカーとしてわが国のインフラ整備の最前線を支えている。空港や高速道路などを舗装するアスファルトプラントは国内シェア70%を超え、空港や高速道路用に限ればシェアは90%に達し、コンクリートプラントも国内トップシェアを誇る。
同社は、事業の柱であるこの二つのプラントの開発で培った「混練」「加熱」「搬送」「制御」の4つのコア技術を武器に、汚染土壌浄化設備等の環境関連事業、自走式土質改良機・コンベヤ・クラッシャなどのモバイル関連事業にも進出し、さらなる発展に向けてインフラ需要が旺盛なASEAN(東南アジア諸国連合)も視野に入れ海外展開にも注力している。
創立以来数々の試練や困難を乗り越えて発展を遂げてきた同社はすでに次の100年を見据え、さらなる飛躍を目指して挑戦を続けている。