金子直吉・鈴木よねの死

お家さんと金子の信頼関係は終生変わることなく

鈴木商店破綻という歴史的な出来事の前年・昭和元(1926)年、よねは、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を贈られた。鈴木商店が仏・レール・リキッド社に莫大な特許料を払い、クロード式窒素工業を軌道に乗せた功績が評価されたものである。

鈴木商店の命運を左右する金子直吉の必死の巻き返しも叶わず、ついに運命の日・昭和2(1927)年4月2日を迎えた。かねてから覚悟していた店主よねは、鈴木商店破綻が決まった時、泰然自若として顔色ひとつ変えなかったという。

ことここに至ってもお家さん・よねの金子に対する信頼は揺らぐことなく、「たとえ店はこんなになっても金子が生きていりゃ千人力じゃ」と柳田に洩らしたと伝えられている。

よねは、須磨の本宅から塩屋に移り、閑居の日々を送る中、明治初年に廃寺となっていた神戸の臨済宗「祥龍寺」再興の協力要請を受けた。柳田、金子に相談した結果、よね等の喜捨により昭和2(1927)年祥龍寺の再建が実現し、爾来、同寺と鈴木商店ならびに鈴木ゆかりの人々との密接な関係は今日までも続いている。

お家再興に異常なほどの執念を燃やす金子とは対照的に、よねの晩年は穏やかで謡曲、短歌、連珠碁など変わらぬ日常を過ごしたが、昭和13(1938)年5月6日、86歳の生涯を閉じた。よねの葬儀に際し、金子は“店員総代”として弔辞を読み上げ師父のごとく、慈母のごとく敬愛する店主に対する哀惜を述べた。

金子は鈴木商店再興の夢を太陽曹達に託し、国内外に数々の新規事業を計画、調査を行った。古希を過ぎても満州へ視察に出かけたり、北海道留萌に炭鉱開発(羽幌炭鉱)を進めるなど事業意欲は尽きることがなかった。昭和18(1943)年、さしもの金子も風邪から体調を崩して病床につき、回復することなく昭和19(1944)年2月26日79歳の生涯を終えた。病の床にあっても死の10日前には、樺太のツンドラ事業について、8日前には、サラワク・ラジャン川のアルミナ、水力発電事業について関係者に書状により指示を出している。

金子は、「鈴木を潰したのはわしや、このままでは死にきれない」と残りの人生を鈴木商店再興に捧げ、正に鈴木商店とは一心同体の生涯であった。後年、金子には正六位勲四等が授与された。

関連リンク

  • 有馬温泉で鮒釣りを楽しむ金子直吉
  • 須磨一の谷の金子邸
  • 鈴木よね遺影
  • 鈴木家の墓(神戸追谷墓園)
  • 再建当時の祥龍寺

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