日商(現・双日)の歴史①
鈴木商店破たん後、100日余りで「日商」を設立
鈴木商店破たん後、約1,000人の社員は系列の神戸製鋼所や帝人などの関係会社に転籍した。また鈴木の整理のために残る社員も多くいた。
一方で、高畑誠一と永井幸太郎にとって、いままで築きあげて来た外国貿易における鈴木の地盤をみすみす三井や三菱に譲ってしまうことは断腸の思いであった。また高畑・永井が学卒派の最年長に当たり、多くの若者が二人を頼って鈴木商店に入社した。彼らは何とか再起してやろう、何とか鈴木を継承する会社をつくろうと新会社設立のために奔走した。
新会社は、整理会社鈴木商店から、日本商業に営業譲渡した上で独立させることとし、高畑・永井は、新会社「日商」の出資者集めと、大口債権者からの協力を得るために奔走した。
台湾銀行の森頭取は鈴木破綻の責任をとって辞任したが、「鈴木は破綻したけれども、鈴木の若い有為な人を散らばしてはならぬ」といい、高畑・永井と親しい台湾銀行の佐々木義彦にできるだけ協力するよう言い残した。
高畑は神戸高商卒の鈴木祥枝の紹介により、三菱財閥の長老であった各務謙吉にも出資を依頼し、各務は「日本の貿易は三井と鈴木の二本柱で発展してきた。日本の繁栄のためには貿易が必要。貿易の知識を持っている人たちが散らばるのは残念だし、日本の損失だ」と出資を快諾した。
また経営者にはそれなりの大物であって欲しいと、鈴木商店再建のために派遣された台銀出身の下坂藤太郎に社長就任を依頼し、下坂は無出勤・無給を条件に引き受けた。
新会社の資本金100万円は、日本商業が本来、台湾銀行、第六十五銀行、横浜正金銀行へ返済すべき債務を新会社の出資金に振り替えてくれた分で81.5万円、残りの18.5万円を鈴木商店残党組39人他で捻出した。
一方の金子直吉は、鈴木の名を残した再出発を考え、かつ貿易部門の日本商業だけを切り出しての再出発には反対であった。ただし、大口債権者は、新会社には鈴木の体質を持ち込まず若手を中心とした再建を望んでいたため、金子の日本商業への参加を拒んだ。そして金子は昭和6(1931)年に太陽曹達(現在の太陽鉱工)を持ち株会社として、鈴木家の再興を夢見て、再び事業経営に乗り出した。
昭和3(1928)年2月8日、鈴木商店破綻からわずか100日余りで日商の設立総会が開かれ、高畑・永井は取締役に就任し、監査役には、台湾銀行出身の佐々木義彦が就任した。
高畑たちは鈴木倒産の教訓から、「不況に強い堅実経営」を狙い、「スモール・スロウ・バット・ステディ(ちっぽけで、歩みも遅くても仕方がない。堅実に行こう)」を新会社のモットーとした。資本金100万円という鈴木の80分の1の規模が新会社の理念を象徴していた。某新聞は、「金も失い、本業捨てていったい何をやろうというのか、三年ももてば上出来」(金とは金子直吉のことを指す)と揶揄した。