羽幌炭砿のあゆみ~Ⅱ.創業前後の混迷期(昭和14年~19年)~

資材不足・人手不足・資金不足の中、苦闘が続く

羽幌炭砿の創業は、軍事体制の強化により、日本が混迷を極めた時期とも重なり、時代背景からも創業時の苦難をうかがい知ることができる。

昭和12(1937)年、日支事変(日中戦争)が勃発し、翌年には国家総動員法が公布されるなど、次第に戦時経済体制が強化された。戦局が拡大する中、「日本石炭」(石炭配給機関)による石炭の一手買入・販売が実施されるなど、石炭の供給・販売面においても国の統制が及ぶこととなり、国から全国の炭鉱に対して石炭の増産が要請される時代でもあった。

古賀六郎らの地質調査などを終え、事業化の目途が立ったことから、太陽曹達は昭和14(1939)年に羽幌鉄道(株)を設立。この年、太陽曹達は太陽産業に改称し、羽幌駅前に太陽産業羽幌出張所を、築別御料に太陽産業羽幌砿業所を開設。鉱区を「築別炭砿」と命名した。同年鉄道建設に着手。

築別炭砿は昭和15(1940)年2月に開坑し、同年7月の創立総会において太陽産業羽幌砿業所は羽幌炭砿に改称。社長に岡新六、専務取締役に金子三次郎、常務取締役に古賀六郎、支配人に町田叡光、監査役に谷治之助が選任され、さらに羽幌炭砿の鉱区について鈴木独自の地質調査をおこなった前述の元鈴木商店小樽支店員・富樫狷介も取締役に名を連ねた。これら元鈴木商店の幹部や金子直吉の縁者が開発を支えていくことになる。

昭和16(1941)年5月、羽幌鉄道が羽幌炭砿を吸収合併する形で、羽幌炭砿鉄道(株)が誕生した。太平洋戦争が勃発した12月には鉱員、事務職員をも動員した昼夜兼行の強行工事の結果、工期2年余りの短期間で悲願の羽幌炭砿鉄道(「築別炭砿―築別」間16.6km)が開通した。ほぼ同時に国鉄羽幌線の「築別―羽幌」間も開通。「石炭産業は運搬業」といわれるが、ここにようやく石炭企業としての基盤となる輸送手段が確立した。

鉄道が開通し、採炭も掘進も一気に進むかに見えたが、相次ぐ軍の召集で働き盛りの人材が減少。さらに電力不足と採炭機械、生産に必要な資材の絶対的な不足から、手掘りという原始的な採炭方法を余儀なくされ、出炭量は低迷を続けた。

国は昭和17(1942)年頃から人出不足を朝鮮人・中国人を徴用することで乗り切ろうとしたが、出炭効率は悪化する。しかし、増産は戦争遂行のための至上命令であったため電力・機械・資材の有無を問わず、いかにコスト高になろうとも出炭は昼夜二交替で続けられた。24時間連続勤務をスローガンに掲げた「採炭決死隊」も結成され、重労働を覚悟した隊員たちは白タスキをかけて入坑したという。開坑後の昭和16年度から18年度にかけての出炭量は2万㌧~6万㌧台で推移。昭和19年度には9万㌧台に増加したものの、これは未熟練労働者を動員した人海戦術による採炭の結果であり、出炭効率は急速に低下していった。

昭和18年(1943)年1月、1,000kWの火力発電所が完成。巻上げ機等の機械も順次導入することにより出炭量はようやく増加傾向を示し始めた。昭和19(1944)年になると朝鮮人・中国人だけでなく近郊町村の青壮年(勤労報国隊員)などが多数入山し、人手不足を補った。羽幌炭鉱は悲願の年産100万㌧達成まで幾度か存廃の危機に立つが、戦争の行方が不透明な中で、この頃が最初の大試練であった。

羽幌炭砿のあゆみ Ⅲ.戦後の混乱期

  • 太陽産業羽幌出張所・羽幌鉄道創立事務所(昭和14年頃)
  • 昭和10年代前半の築別地区
  • 築別炭砿東坑坑口付近(昭和17年)

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