羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑮「羽幌炭砿の20年を振り返って(羽幌炭砿鉄道常務取締役 嶋内義治)」
会社の歴史的な足跡を振り返って
会社の歴史を振り返ってみると、それぞれの特徴をもついくつかの歴史的小区分ができる。第一は創立直後から敗戦にいたる時期で、昭和十五年から二十年まではいわば混迷期ともいえよう。
第二は敗戦後から大立入坑道の開削をはじめるまえの時期、昭和二十年後半から二十五年まで、これは当社の歴史を通じてもっとも苦難の時期であった。
第三は大立入(大竪入)坑道の開開削、ベルト斜坑など築別鉱業所の合理化工事に取組んだ時期で、昭和二十六年から三十年までの整備時代。
第四は合理化工事の完成によって社業が躍進した時代で、昭和三十年から三十五年にいたる時期。第五は将来のことに属するが、石炭鉱業が全般的合理化課題の遂行を絶対的使命として要請されているなかで当社がさらに合理化の課題を追究し、出炭百万トン突破のかねてからの念願を遂行し、あらたな飛躍発展をとげようとする昭和三十五年から四十年にいたる時期である。
私の入社は昭和十八年の二月で、創業当時の体験はない。会社の創立は昭和十五年七月で当時は支那事変が拡大し、さらに大きな戦争へ突入しようという時期で、あらゆるものが不足していた。炭鉱の開発のためには輸送路を確保しなければならない。北海道でも僻遠の地にあった築別炭砿付近は想像できないほどの悪路に悩まされていたので、石炭の搬出を確保するための鉄道建設は炭鉱開発にとって必須の前提条件であった。そのころ羽幌町から炭鉱までの資材、食料の運搬は馬車にたよっていたが、悪路のために一馬車一俵の米しか運べないといった状況であった。
戦争が拡大すれば建設資材の入手も困難になる。そういう事情から鉄道建設が急がれ、資材不足のなかで昼夜を分かたぬ努力がつづけられた。こうした努力の結果、昭和十六年十二月十四日、鉄道が開通した、日本が太平洋戦争に突入してからちょうど一週間目である。当時羽幌町には太陽産業羽幌鉱業所と羽幌鉄道株式会社の二つがあって、前者は築別炭砿の開発にあたっていた。
しかし、鉄道は開通したものの戦時下で資材の欠乏ははなはだしく労務者も不足し、そのうえ電力の供給がないため捲き(巻き上げ機)も蒸気の捲きをつかって作業するといった状態であった。私の入社した昭和十八年にようやく古い発電機ではあったが一千KWの発電機が設置され、軌道に乗りだした。当時の資材は配給制をとっており前年度の実績による割当てであったため、開坑早々の当社に実績などあろうはずがなく、したがって資材入手は極度に困難で不十分なものであった。
こうして開坑当初からあらゆる制約をうけて計画していた発展過程をたどることができず、当時の町田支配人ならびに第二代光増所長らの努力にもかかわらず、細々と経営をつづけるほかはなかった。戦時下であったため炭鉱にも軍需管理官が駐在し、資材、労務者の不備にもかかわらず無計画な出炭が強制され、濫掘による炭鉱の荒廃ははげしくなった。昭和19年末、坑内に自然発火がおこり、だんだんそれがひどくなって、その後二年間は坑内自然発火で石炭の採掘場所がなくなるといったところまで追い詰められた。
こうした事情のために戦後非常な経営難におちいり、米代や賃金も払えず資材代も払えない時代が長く続いた。一方、戦後傾斜生産による増産が要望され、同時に炭鉱の復旧と炭住整備、その他新しい設備をつぎつぎに設置しなければならなかった。
昭和二十三年、全国十一の新坑指定対象坑の一つとして羽幌鉱業所もその中にあげられたが、二十五年頃まで三年間も資材その他の支払いができない状態であった。二十二年、二十三年は苦しいといってもまだ復金融資がうけられ金融措置もついたが、二十四年になってこれが見返資金に切りかえられ、大蔵省が日銀窓口で融資対象の選択をすることになった。当時専務だった町田社長は上京して長期にわたって工作したが、約1カ年も融資が決定せず、非常に苦労したものであった。この時期が当社にとって最大の苦難期であった。そのころ巷間に「いろはを忘れたぼろ炭砿」という当社を評した言葉まででる始末であった。
二十五年にはそれまで長期にくすぶっていた労使間の冷たい空気が爆発して、三十五日の長期ストが発生した。幸いにしてこれは一部組合員の有識者の指導によってうまく解決し、それ以来炭労組織を脱退して会社とともに生き抜く新しい性格の組合ができて経営の立直りに貢献した。
創立後約十年にわたる混迷期と戦後の苦難期を通じ、町田(叡光)社長は困難に負けず積極政策をとって、結局これをやり抜いた。戦後五千トン(月産)程度の出炭が昭和二十六年には羽幌鉱の開発の結果もあって二万五千トンの出炭を見るようになった。こうしたなかで朝鮮ブームに際会し、経済的に非常に救われ、会社の経理状況も好転してきた。このときに生じた利益でもって築別炭砿の合理化にふみきった。大立入坑道開削がその端緒である。これは二十八年十一月に完成した。その間二十八年、二十九年には深刻な不況が到来したが、合理化による増産、能率の上昇とコストの低下によって大きな苦労を経験しないで乗りきることができた。三十一年十月には、大立入工事と双璧をなすベルト斜坑が完成した。
こうして合理化が本格的軌道にのったころ三十一年から三十二年の好況に際会し、ふたたび躍進の機会に恵まれることとなった。二十五年までの苦難期を境に、当社はそれ以後、禍を福に転じ、福がまた禍をカバーするといった調子で今日まで順調に発展することができた。願わくば、今後もこのように推移したいものである。
当社の炭鉱はまれにみる良好な炭層条件をもっている。しかし、資源がよいだけでは事業は成立しない。それには社内の人の和、外部の協力がなければならない。
当社の創業発展については、まず最初の功労者として旧鈴木商店の支配人、金子直吉翁があげられる。氏の事業に対する考え方として「商事会社は国に何も残さぬが事業をするものはやはり一面国の資源に関する事業をしていなければならない」ことを強調されていた。こうして氏は資源的に第二の夕張とみられていた羽幌一帯の鉱区を買収した。大正六年頃のことであった。鈴木商店は精糖、樟脳事業を中心に明治後期より事業を拡張し、六十余の会社を創立、支配し大いに発展したが、第一次世界大戦後のパニックで痛手をうけ、昭和二年に倒産した。しかし、最後まで炭鉱を捨てず、昭和九年には羽幌地区一帯のボーリングを行って地質条件等を調査し、事業の準備をすすめた。数十年にわたり一貫して炭鉱開発の夢をすてず、今日の開花を準備された翁の先見と努力にわれわれは深く感謝しなければならない。
羽幌鉱区は当時四九鉱区、約七千万坪の面積を有していた。昭和九年頃から種々調査の結果、現在の築別炭砿の地を選んで開発することになったが、最初の開発を手がけた古賀六郎初代鉱業所長の功績も大きい。羽幌鉱区は四十年にわったて買収前の所有者が少しずつ採掘したところはあったが、現築別鉱業所は当時まったくの処女鉱区で、円念な調査の結果はじめてこの開発に着手した。いわば炭鉱開発の基礎条件を準備した功といえる。
また、前社長故岡新六氏ならびに創業当時から終戦まで専務取締役を務められた金子三次郎氏の二人もここにその業績を詳述するいとまはないが、開発当初より当社の発展のために労苦を惜しまず努力され、今日の発展に寄与された貢献者である。
最後に羽幌炭砿の二十年を通じて最初から開発の重任を担い、今日にいたる社業の発展を推進してきた町田社長こそは現実の最大の功労者であり、渡辺賞受賞によって斯界よりも折紙をつけられた業界有数の合理化を推進した朝比奈(敬三)専務も亦当社の今日を築いた立役者である。
町田社長は金子直吉翁の数十年にわたる意志をうけつぎ、創立当初から神戸製鋼所の有望な地位を投げうって、支配人兼経理部長として北海道の山間僻地に入りこみ、今日の成功をもたらした。積極性と計画性に富み、儲けたときにすぐ次の事業に投資していく先見の明、事業に対する創意発案の才能と資金面の準備、羽幌炭砿は氏の推進力によって今日の隆栄を見たといってもよかろう。
朝比奈専務をはじめとする技術陣の貢献を軸とし、従業員の会社経営に対する理解、役員一同の私心をはなれた協力態勢、これらのことが一体となって羽幌炭砿の今日の歴史に寄与している。
そのほか、苦難期を通じて一貫した支持を与えられた興業銀行はじめ金融界の援助、数年にわたる不払いにもかかわらず資材の提供を惜しまれなかった各社、需要家の援助も我々が忘れてならない大切なことである。
最初炭鉱に入ったころは、炭鉱長屋には鍋、釜以外にこれといった目ぼしいもの何一つなかった。従業員の移動は激しく、三カ月もすれば全部が入れかわるといった状態であったが、二十年を経た今日、炭鉱の従業員は定着し、すでに親の代から子供の代に代わっているところもある。そこではミシン、テレビ、電気洗濯機などそなえた文化生活が営まれている。われわれはこうした生活を大切にすると同時に、今日の盛業をもたらすにいたった会社の歴史的な足跡を振り返って、明日への発展に目を向けなければならない。
(嶋内義治「二十年の回顧」より)