羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑪「羽幌炭輸送専用船」

羽幌炭輸送専用船が留萌港から東京芝浦に向けて出港

羽幌炭砿は昭和20(1945)年代前半までは出炭量も少なく、販売先は道内の省納炭(国鉄へ販売する石炭)が中心で、その他は暖房用の一般家庭向けであった。しかし、同年代後半からは出炭量の急増とともに主力市場は東京を中心とする本州方面へと移行し、留萌(るもい)港から市場への輸送コストの低減が会社経営上の重要課題となっていた。当時、本州の主要販売先は東京電力、中部電力、関西電力、日清紡績、明治製菓などであった。

羽幌炭砿はこの課題を克服すべく、従来「光福丸」など4隻で「留萌―東京芝浦」間の羽幌炭輸送を専業としていた佐藤海運(本社・東京、社長・佐藤三四三)が昭和35(1960)年2月に資本増強するのを機に、同社株式の80%を取得して子会社とし、社名を東京と北海道にちなんだ「京北海運」(社長は羽幌炭砿鉄道社長の町田叡光(えいみつ))に改め、羽幌炭輸送専用船「羽幌丸」(3,901㌧)を今治市の「来島(くるしま)どっく」で建造した。

「羽幌丸」を建造する造船所は日商の船舶部と協議した結果、鈴木商店傘下の播磨造船所から技師が派遣されている「来島どっく」に決定した。

「羽幌丸」の進水式は昭和36(1961)年3月15日、「来島どっく」にて町田社長令嬢の晴子さんによって支綱(しこう)切断が行われた。また同年5月3日には留萌港にて関係者約1,000名が参列して荷役始めの式が盛大に行われた。この時から「羽幌丸」は羽幌炭砿の石炭を満載して月に3航海、「留萌―東京芝浦」間のピストン輸送を続けた。                                    

京北海運は、「来島どっく」において「羽幌丸」に続き昭和37(1962)年4月、第二船「天塩(てしお)丸」(1,30トン)を、同年11月、第三船「留萌(るもい)丸」(3,907トン)を、昭和39(1964)年3月、第四船「()(ふゆ)丸」(4,702トン)を建造する。

羽幌炭砿の出炭量急増に伴い、留萌港南岸の石炭積込設備だけでは処理が困難になっていたことから昭和35(1960)年7月、かねて同港の施設を利用する石炭会社と石炭販売会社の負担金で建造を続けていた同港北岸の積込み設備が完成した。

最終的には総工費の半分を羽幌炭砿が、残りの半分をその他の会社が負担した。設備はガントリークレーン、ベルトコンベアー、ローダーなどで構成され、これにより年間80万トンで足踏みをしていた石炭輸送量は南岸の設備と合わせて年間100万トン突破が可能となった。

一方、羽幌港には国費約7億円が投じられ、長年西防波堤、埠頭、岸壁の工事が続けられていたが昭和42(1967)年9月25日、羽幌港に京北海運の「天塩丸」が初入港し、羽幌炭の積み出しで念願の商港へのスタートを切った。

その後、羽幌港からは同じ「天塩丸」により昭和43(1968)年に4,000トン、昭和44(1969)年には4,500トンの羽幌炭を東京芝浦へ向けて輸送し、羽幌炭砿が閉山した昭和45(1970)年にも京北海運の大型自動化貨物船「北隆丸」(1,886.6トン)が羽幌炭を満載し、出航している。 

羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑫「羽幌炭砿創立20周年に寄せて(羽幌炭砿鉄道会長 高畑誠一)」     

  • 「羽幌丸」の進水式(昭和36年3月15日)
  • 羽幌炭輸送専用船「羽幌丸」(当時)
  • 羽幌炭輸送専用船「羽幌丸」(当時)

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