破綻へ

大戦不況と金融恐慌

事業拡大にかげりが見えだしたのは大正11(1922)年のワシントン海軍軍縮条約である。後年金子直吉も鈴木商店破たんの最大の要因としてこれを挙げている。

本条約の締結によって参加各国は艦船建造を制限することが決定され、国内残留船腹が一転して過剰船腹となってしまい、鈴木商店傘下の神戸製鋼所、播磨造船所、鳥羽造船所などの中核部門は大きな打撃を受けたのである。

また第一次大戦後の不況から小麦相場が乱高下し、中核事業である日本製粉も深刻な経営不振に陥り、金子は日清製粉との合併を画策した。しかし日清側の最終同意を得られず、他財閥系列へ吸収された。日銀や政府を巻き込んだこの日本製粉に対する金融支援は鈴木商店の信用に大きな影を落としたと指摘されている。

追い打ちをかけるように大正12(1923)年、関東大震災が発生する。経済は大混乱に陥り、政府と日本銀行は震災手形を発行することで取引秩序の安定に努めた。震災手形とは、震源地を支払地とする手形、震災地で事業を営む者が振りだした手形、震災地で事業を営む者を支払人とする手形を指す。

手形は震災被害者の救済が目的であったが、不況と震災が重なったため震災手形ではない手形を震災手形と称し、それを金融機関に持ち込んで割引く行為が横行した結果、政治問題へと発展する。政府は震災手形法案を成立させ、未決済残高の処理に公債や公的資金を充てることで事態の収拾を図ろうとしたが、未決済残高のうち半数が鈴木商店のメインバンクである台湾銀行分であることが問題となる。

台湾銀行は日本によって設置された台湾の中央銀行で、紙幣発行権を持つ特殊銀行である。鈴木商店との関係は台湾での樟脳ビジネスの展開に始まり、グループ内に銀行を持たない鈴木商店は同行に事業資金の大半を依存し、同行の鈴木商店系企業への融資総額は融資残高の5割を占めるまでになっていった。

関連リンク

  • ワシントン海軍軍縮条約の会場(Memorial Confederation Hall)
  • 八八艦隊計画の中止
  • 関東大震災
  • 台湾銀行
  • 鈴木商店の破たんを伝える記事

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