クロード式窒素工業の歴史⑥
鈴木商店の経営破綻に伴い、彦島工場は三井鉱山による経営に移行
クロード式窒素工業から経営を引き継いだ第一窒素工業は従業員一同団結して懸命に努力した結果、昭和2(1927)年の後半あたりからようやく技術力も向上し、安定経営に向かおうとした矢先の同年4月2日、親会社の鈴木商店が経営破綻を余儀なくされる。抵当に入っていた彦島工場は台湾銀行の差押えを受け先が見えない中、将来の帰趨を巡って工場内は三井派、住友派、大日本人造肥料派に分かれて人心は大いに動揺した。
第一窒素工業はたちまちにして運転資金・改造資金不足に陥り、彦島工場の運営は困難の極みに達した。窮状の打開策として支配人・武岡忠夫(当時の会計主任)を工場長に起用し、武岡の経営手腕をもって難局を乗り越えるべく極限まで節約をして努力するも、水素分離装置の度重なる事故・トラブルの余韻が冷めやらぬ中、時代の先端を走っていた彦島工場は苦難の道をたどることとなった。
第一窒素工業専務取締役の辻湊は住友肥料製造所(後・住友化学工業)と大日本人造肥料(後・日産化学工業)の2社に対し、彦島工場の買収について交渉を開始した。大日本人造肥料は当時イタリアのファウザー法を導入して富山工場の建設にとりかかったところであり、常務取締役・石川一郎(後・日産化学工業社長、初代経団連会長)は「早くおたくの方の態度を決めてほしい。最後は技術者はいただきましょう」と辻に話したという。
同じころ、クロード式窒素工業の専務取締役であり第一窒素工業の代表取締役でもあった磯部房信は鈴木商店倒産後の昭和2(1927)年後半のある夜、三井系の電気化学工業の常務取締役・日比勝治の門を叩き、「彦島のクロード式工場は台湾銀行によって抑えられてしまいました。私は今日なおクロード法が優秀なものであることを確信しております。なんとかこの工場を再興して自分の責任を果たしたいと思います。いろいろ考えました結果、三井財閥のお力を借りて再生をはかりたいのです」と、当時三井の化学部門の責任者であった三井鉱山の常務取締役・牧田環(後・三井鉱山会長)へのとりなしを打診する。
当時、三井鉱山はアンモニア事業への進出に対し慎重な態度をとっていた。ところが鈴木商店の破綻を機にクロード式窒素工業の株式を取得したメインバンクの台湾銀行は、三井合名に対し同行の管理下に移った同社株式の引受けを申し入れて来たのである。
当時、牧田環と中井四郎(牧田と東京帝国大学応用化学科で同期、後・東洋高圧工業会長)は大学の1年後輩である東京工業試験所長の小寺房治郎から、同所が開発に成功したアンモニア合成法(東工試法)の導入による企業化を勧められている最中であった。
牧田は東工試法に大いに食指を動かしたが、三井合名に対する台湾銀行の申し入れは一種の国策的性格を帯びており、三井鉱山は台湾銀行の意向を受け容れないわけにはいかなかった。
結局、牧田は妥協策として昭和3(1928)年の1年間、三井鉱山が同じ三井系の電気化学工業と協力して第一窒素工業の委任経営にあたることになり、牧田の友人、不破熊雄(三井鉱山田川鉱業所長)をリーダーにして三井鉱山、三井鉱山三池製錬所、三井鉱山三池染料工業所、電気化学工業(現・デンカ)によって調査団が編成された。
調査団は、彦島工場に乗り込み調査を続け、彦島での調査が一段落したところで渡仏し、クロード法の特許を持つレール・リキッド社から直接同法に関するデータを取得するとともに、レール・リキッド社に支払うロイヤリティの引き下げ交渉にあたった。
この調査によってクロード法によるアンモニア・硫安工場の採算性が確認され、昭和4(1929)年1月、三井鉱山は鈴木商店が500万円を投じて入手したクロード法の特許権と、彦島工場(彦島製錬所を含む)を合わせて150万円で買収した。
結局、この買収が三井側にとっては三池窒素工業(三井鉱山の臨時窒素建設部の後身)の設立(昭和6年8月)、ひいては東洋高圧工業の設立(昭和8年4月)となって結実し、その後の高圧化学界に多大な貢献をもたらすことになる。
三井鉱山は大正2(1913)年以来、亜鉛の製錬を福岡県三池にて岐阜県神岡鉱山の鉱石を使用して進めてきたが、輸送コスト面・品質面において問題があったため神岡鉱だけに依存することなく、輸入鉱石も使用する動きが出てきた時期でもあった。三井鉱山にとってはクロード法によるアンモニア合成工場もさることながら、亜鉛製錬工場も魅力的であり、両工場一緒に買収との思惑はあったであろう。
クロード法の彦島工場と彦島製錬所の三井鉱山への引き渡しは昭和3(1928)年1月に行われ、三池染料工業所の辰巳英一が実験主査として派遣され、クロード式窒素工業彦島工場の初代工場長・織田信昭(鈴木商店出身)が再び工場長に就任した。
かつて彦島工場で働いていた者の中で、磯部房信、織田信昭、二階堂行徳、菊地橘四郎、渡辺和気、中島信一、日野儀一らの技術者は三井に残り、これを潔しとしない中尾新六、津上雄三、八木裕、池知為妹、久米猪之助らは袂を分かって愛媛県新居浜の住友肥料製造所へ移り、住友化学工業におけるアンモニア事業の基礎を築いた。