豊年製油(現・J-オイルミルズ)設立の歴史③
豊年製油設立、そしてホーネンコーポレーションからJ-オイルミルズへ
大正7(1918)年11月、4年にわたる第一次世界大戦が終結すると、日本経済はインフレ基調からデフレ基調へと激変し、鈴木商店も大きな転機を迎える。戦後不況が深刻化した大正10(1921)年には同社傘下の企業の中にも業績の振るわないものが現れるようになった。このため、関係会社や直営部門の分離独立がはられることとなった。
鈴木商店製油部も大戦終結による反動不況により、鳴尾工場は3年間休眠状態、大連工場も断続的操業となる。横浜工場は操業を停止し、結局そのまま創業再開に至ることはなかった。しかし、清水工場だけは立地面などの優位性から、鈴木商店製油部の主力工場として操業を続けていた。
このような状況の中、製油部門は鈴木商店本体から分離独立することになる。大正11(1922)年4月に神戸の鈴木商店本店にて設立総会が開かれ、豊年製油株式会社が設立された。
豊年製油は大連、清水、横浜、鳴尾の4工場を営業権とともに継承し、本社は神戸市海岸通の鈴木商店内に置かれた。新会社の役員には、社長に柳田富士松、取締役に村橋素吉、永井幸太郎、専務に清水工場長の妹尾清助、監査役に松原清三ら鈴木商店の関係者が就任した。
南満州鉄道(満鉄)は、生産される肥料「撒豆粕」(ばらまめかす)について五穀豊穣、豊年満作を祈る農民の気持ちを表徴して「豊年撒豆粕」と命名し商標登録していたが、鈴木商店はこの商標を引き継ぎ、従業員が、当時まだ知名度の低かった撒豆粕の普及活動を懸命に進めた結果、「豊年撒豆粕」の名は徐々に全国に広まっていった。そして大正11(1922)年に新会社として発足するにあたり、社名に「豊年」の名を取り入れて「豊年製油」としたのである。
肥料用大豆は、それまでは「圧搾法」により油脂を搾った丸板状の丸粕(直径約60㎝)が主流で、農家はそれを都度削って使用していた。豊年製油はこれをフレーク状の「撒大豆粕」の形に変え、叺に入れて「豊年撒豆粕」として販売したところ好評を博し、元来の商品自体の有用性と相まって圧倒的なシェアを誇るようになる。
大豆油の精製法の研究にも力を注ぎ、大正11(1922)年、初めて大豆油単体の食用油「特製油」を発売。さらに翌大正12(1923)年にはさらなる精製法の改善に取り組み、「大豆白絞油」を市場に送り出した。
大正14(1925)年のわが国の大豆油生産高は約3万6,000トン程度であったが、その内豊年製油の生産高は約2万5,000トン(およそ70%)に達する勢いをみせ、その後も同程度のシェアを維持していく。
大正13(1924)年、柳田富士松が病により社長を辞任すると、金子直吉と親交があった井上準之助(当時、大蔵大臣)と森広蔵(当時、台湾銀行副頭取)の推薦により、杉山金太郎が豊年製油の社長に就任した。社長を外部から招聘した背景には鈴木商店の経営悪化があった。
鈴木商店は第一次世界大戦終結による反動不況、震災恐慌、金融恐慌に巻き込まれつつ昭和2(1927)年4月2日に破綻したが、豊年製油は杉山社長のリーダーシップの下、この混乱期を安価な大豆を確保する一方、斬新な新商品の開発による製品の多様化、東京、大阪の特約店を中心とした販売組織「豊年会」の結成等による販売力・営業力の強化により乗り越えていった。
昭和6(1931)年には初めて脱脂大豆を醸造用原料として利用する途を拓き、「桜豆」として発売。昭和8(1933)年には地元清水でも盛んな木材業で使用される大豆蛋白を原料とした接着剤「豊年グルー」を発売したが、これは同社化成品事業の基礎となる大きな技術的成果であった。
昭和5(1930)年5月29日には、静岡県を行幸中の昭和天皇が清水工場をご視察になられた。静岡県民友新聞は、昭和天皇行幸の栄誉を称えつつ「清水工場が世界一の製油工場と称せらるるのも決して湓辞ではあるまい。製造能力において世界一を誇る大工場を有し、国内使用の大豆粕及び大豆油の大部分は豊年製油会社の供給に懸っている・・・」と報じた。
また、昭和33(1958)年10月31日には皇太子殿下(現・上皇)が関西ご旅行のみぎり、鳴尾工場をご視察になられた。同社の工場はこの昭和天皇の皇太子時代とあわせて、2代にわたって皇太子殿下ご来駕の栄に浴したことになる。
豊年製油は太平洋戦争終結後も、その時代に即応した経営体質の改善とあわせて新商品の開発・多角化へ向けた経営努力は続いていく。
昭和30(1955)年に発売された豆腐用「ユタカ豆」は、低温抽出脱脂大豆を利用したもので日本初の商品として技術的にも高く評価された。また同年、製油業界としては初めて配合飼料「豊年ソヤット1号」を発売。昭和36(1961)年に発売した業界初の450gポリ容器入り家庭用油は、画期的商品として好評を博した。
昭和50(1975)年に発売された変性フェノール樹脂接着剤「PL-60」は、合板用接着剤として画期的な製品で、その後各接着剤メーカーが追随するところとなる。昭和50年代に入ると、はねない油として「豊年デリシイ」が発売された。昭和54(1979)年には「豊年エルフ」をもって健康食品市場にも参入。平成元(1989)年には環境問題を考慮した「豊年紙パックサラダ油1,000g」を発売した。
多角化路線によって総合生活文化企業としての業容を示すに至った同社は、21世紀を目指し発展し続ける企業体質を作り上げることを目的に昭和63(1988)にスタートした「ACT21」運動の主眼の一つとして、最早「製油」は社名の表現にふさわしいものではなくなってきていたという判断の下、平成元(1989)年4月に社名を株式会社ホーネンコーポレーションに変更した。
その後同社は日本の製油産業のさらなる成長を実現する「世界に通用する製油企業」を目指し、平成14(2002)年から平成16(2004)年にかけて味の素製油、吉原製油との経営統合を実現。株式会社J-オイルミルズとして生産・物流・原料調達の運営効率を高めつつ、各社の営業力・研究開発力・マーケティング力を結集し、油脂事業を基盤にして油糧(ミール)、健康食品、スターチ、飼料、大豆機能性素材(ファイン)、化成品、大豆シート食品、メディカルサイエンスといった事業を幅広く展開している。