日本油脂(現・日油)の歴史⑧
合同油脂グリセリンは大日本人造肥料の傘下に入り、「合同油脂」として新発足
大正12(1923)年2月にスタンダード油脂が日本グリセリン工業を吸収合併し「合同油脂グリセリン株式会社」が誕生したことにより、同社の工場は従来の兵庫、王子、保土ヶ谷、本郷の各工場のほか、あらたに旧日本グリセリン工業の佃工場(大阪府西成郡千船村大字佃)と本所工場(旧日本精油工業)の二工場が加わった。同社は早速硬化油をはじめグリセリン、石鹸、オレイン酸、ステアリン酸、ローソクなどの製造販売にあたったが、業績は一進一退の状態が続いた。
そんな最中の大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し関東の三工場(王子、保土ヶ谷、本所)は甚大な被害を受ける。被害総額は約110万円にのぼり、同社はこの損害を償却するため、大正13(1924)年の臨時株主総会において資本金を130万円減資して500万円にした。その上で保土ヶ谷、本所の二工場を閉鎖し翌大正14(1925)年2月には、王子工場に、かねてアメリカより購入していた石鹸製造機械の据付けが完了したので本郷工場を閉鎖した。
大正15(1926)年には、長年の懸案であったグリセリンと牛脂に関する関税問題が硬化油業者に有利な形で解決したことから、以後同社の経営は比較的順調に推移した。しかし、運転資金は常に逼迫状態が続いていた。その理由は、スタンダード油脂が日本グリセリン工業と合併する際、農総務省工務局の合意を得ていた低利資金400万円を300万円に減額されたことが主因であった。そのため、合同油脂グリセリンは親会社の鈴木商店に常時150~160万円の資金融通を仰がねばならなかった。
こうした最中、大戦後の反動不況により大きな痛手を被り、関東大震災によりさらなる打撃を受けた鈴木商店は昭和2(1927)年4月2日、金融恐慌に巻き込まれる形で経営破綻を余儀なくされた。合同油脂グリセリンにとって資金融通を受けていた親会社・鈴木商店の破綻は大きな打撃となった。
この非常事態を回避するため、合同油脂グリセリンは当時王子工場が水素の供給を受けていた「大日本人造肥料」(後・日産化学工業)に対し、鈴木商店の持ち株に相当する株式を肩代わりすること、鈴木商店に代わって運転資金を融通することを要請し、同意を得ると昭和2(1927)年3月、同社の傘下に入った。
この間、大正13(1924)年4月27日には久邇宮邦彦殿下が、昭和3(1928)年10月10日には日本産業協会総裁海軍大将伏見宮博恭殿下が王子工場に台臨され、石鹸その他の製造状況を視察された。
その後も、昭和4(1929)年に発生した世界恐慌、翌昭和5(1930)年の金輸出解禁断行の影響を受け、不況に喘いでいた日本経済は一段と深刻さを増した。油脂業界も硬化油、魚油の暴落に加え、不況による販路の縮小と原料の乱売による製品の投げ売りを招来した。合同油脂グリセリンも経営悪化の一途をたどり、ついに昭和6(1931)年下期の決算において91万円余の損失計上を余儀なくされ、大日本人造肥料からの資金融通は400万円にも達した。
ここに至り、同社は前期繰越損失10万円余と91万円余の損失の計101万円余の整理と、同時に固定資産の時価評価を断行することを決断した。具体的には、資本金500万円の半額250万円を減資し、積立金35万円とあわせた285万円をもって繰越損失と有価証券、不良資産、固定資産などの償却にあてて財務内容の健全化をはかるとともに、会社の運営資金を確保するため先に大日本人造肥料が引き受けていた社債250万円を株式に振り替え、資本金を500万円に戻すこととした。
同時に社名を合同油脂グリセリンから"グリセリン"の名称を省くことを決定し昭和6(1931)年12月28日、「合同油脂株式会社」として新発足した。役員は合同油脂グリセリンが大日本人造肥料の傘下に入った際に次の通り一変し、大日本人造肥料系の田中栄八郎が長崎英造に代わって社長に就任した。
取締役約社長 田中栄八郎、専務取締役 二神駿吉、常務取締役 苫米地義三、常勤監査役 石川一郎、監査役 小西艶太、金光庸夫
この間、同社の製品は高く評価され、各博覧会において次のとおり賞牌を受けている。
○大正15(1926)年5月13日 第2回化学工業博覧会(東京上野不忍池畔) 名誉賞牌:硬化油およびグリセリン、金牌:レコード石鹸
○昭和3(1928)年5月19日 大礼記念国産振興東京博覧会 優良国産賞牌:レコード洗濯石鹸、ローソク、硬化油、グリセリン、ステアリン、オレインの各製品
○昭和3(1928)年11月3日 大阪府国産化学工業博覧会 優良賞牌:レコード石鹸、ローソク、硬化油、グリセリンの各製品
○昭和6(1931)年4月27日 第3回化学工業博覧会 名誉賞および有功賞:同社製品に対して