日本油脂(現・日油)の歴史⑨

第一次、第二次「日本油脂株式会社」を経て、現在の「日油」へ

合同油脂グリセリンは業界不況の荒波を乗り越えるべく昭和2(1927)年3月、大日本人造肥料(後・日産化学工業)の傘下に入り昭和6(1931)年12月28日、社名を「合同油脂株式会社」に改称し再出発した。

その後の同社の歴史は、鮎川義介率いる公開持株会社「日本産業株式会社」(日産)の投資政策によって大きな影響を受けることになる。日本産業の投資は昭和8(1933)年頃から活発化し、後に日産コンツェルンを構築するに至るが、日本産業は油脂部門について昭和11(1936)年7月、「ベルベット石鹸株式会社」(*1)を日産系の屈指の大規模水産製氷会社「日本食料工業」の経営下に置き、続いて朝鮮半島唯一の油脂事業会社「朝鮮油脂」を支配下に置くことにより着々と油脂事業へ進出する布石を打った。

(*1)大正14(1925)年11月20日、神戸瓦斯(社長:松方幸次郎)は、魚油や大豆油の入手が困難になっていたことやわが国の石鹸工業が成熟してきたことなどから経営不振に陥っていた日本リバー・ブラザーズの尼崎工場を買収し、大日本石鹸に改称した。大正15(1926)年2月、さらに社名を「ベルベット石鹸」に改称し主に化粧石鹸の製造に当たったが、経営不振が長く続いた。

昭和12(1937)年3月6日、日本産業は日本食糧工業の(いわし)肥料部門(魚油・ミールなど水産加工を扱う部門)とベルベット石鹸を統合し、(旧)「日本油脂株式会社」を設立し、原料魚油から油脂加工までの事業を一体化した。その際、旧日本油脂は国産工業の塗料部門であった「不二塗料製造所」(*2)を吸収合併するとともにすでに不二塗料製造所の経営下にあった「高田船底塗料製造所」(*3)も傘下に置いた。

(*2) 「不二塗料製造所」は大正13(1924)年4月に藤田政輔(鮎川義介の実弟)が設立した不二塗料がその前身である。同社は昭和9(1934)年5月、鮎川義介が設立した戸畑鋳物に吸収され昭和10(1935)年10月、社名を国産工業に改称し国産工業不二塗料製造所となった。

(*3)(第一次)「日本油脂株式会社」発足後の昭和12(1937)年9月、正式に同社に吸収合併された。

このような目まぐるしい紆余曲折の統合・合併を経て、合同油脂と旧日本油脂は油脂工業界における二大勢力となった。昭和12(1937)年、合同油脂の親会社である大日本人造肥料が日本化学工業に資産を譲渡する(*4)一方、合同油脂は同年6月1日、旧日本油脂と合併し社名は「合同油脂株式会社」とした。

(*4)昭和12(1937)年12月、日本化学工業は「日産化学工業株式会社」に改称。昭和18(1943)年4月、日産化学工業は日本鉱業と合併し日本鉱業の化学部門となる。

この合併は、日産の化学部門の統合計画に基づくもので昭和12(1937)年6月25日、この合同油脂はさらに社名を「日本油脂株式会社」に改称し、ここに日産コンツェルンの一翼を担う一大油脂企業である(第一次)「日本油脂株式会社」が発足した。本社は東京田村町に落成した日産の本拠地である日産館に置き、発足当時の役員は次の通りであった。

取締役社長 二神駿吉、副社長 藤田政輔、専務取締役 村山威士(たけし)、常務取締役 久保田四郎、取締役 鮎川義介、苫米地義三、長郷幸治ほか9名、監査役 金光庸夫 他4名

発足当初の同社の事業は油脂、塗料、水産、大豆の4部門であったが、その後多角総合化を指向し、火薬、繊維などが加わった。主力工場は王子、兵庫、佃、尼崎等で、硬化油、グリセリン、石鹸、ローソク、薬品、化粧品などを生産し、硬化油だけをとってみても実に全国生産高の57%強を占め、生産能力、規模ともに当時の油脂業界では群を抜く存在であった。

昭和12(1937)年、日華事変が勃発するとわが国は自由経済から統制経済へと移行し、日本油脂の藤田政輔社長が油脂統制会の会長および帝国油糧の取締役会長に就任したため昭和17(1942)年10月、村山威士副社長が社長に、久保田四郎は専務取締役に就任した。

日華事変が拡大し、やがて太平洋戦争に突入すると昭和19(1944)年、日本油脂は軍需会社に指定されるとともに主要工場が指定軍需工場に指定され、軍事体制の中に組み込まれていった。昭和19(1944)年10月、村山社長が日産自動車へ転出したのに伴い藤田政輔元社長が再び社長に就任し、久保田四郎は副社長に就任した。

昭和20(1945)年に入ると連合軍による本土空襲という最悪の事態を迎え、日本油脂は当初の経営理念であった多角経営・総合経営の方針を修正し、油脂事業の重点生産を強化すべく自立しやすい部門を分離する方針を決定した。この方針に従い昭和20(1945)年4月、日本油脂は日本鉱業の化学部門(12工場)と合併し、ここに新たに前記の日産化学工業と同じ「日産化学工業株式会社」の社名のもとに一大化学企業が誕生した。

昭和20(1945)年8月に終戦を迎えると翌昭和21(1946)年5月、同社は財閥制限会社に指定され、政府から会社の解体分割を命じられた。その後曲折はあったが結局、同社は企業再建整備法に基づき自主的に整備計画を立てることとなり昭和24(1949)年7月、日産化学工業の事業部門の中から油脂、塗料、火薬、溶接の4部門を継承し(化学部門を存続会社とし)、日産化学工業の第二会社として(第二次)「日本油脂株式会社」の社名のもとに再スタートを切った。

近年、同社は昭和36(1961)年に千鳥工場(川崎市)を、昭和44(1969)には大分工場(大分市)を新設して石油化学分野にも進出し、昭和58(1983)年には筑波研究所を開設し医療分野で成果を上げている。また、グローバル化の更なる進展を踏まえ、海外への事業展開を進めている。

現在の事業分野としては、油化、化成、化薬、食品、ディスプレイ材料、防錆からなる基幹事業に加え、新規事業として平成11(1999)年にライフサイエンス事業を、平成13(2001)年にはDDS(医薬品の効果を高める薬物送達システム)事業を発足した。平成16(2004)年6月には食用加工油脂を製造する大師工場(川崎市)を新設して王子工場(*)より移転し、平成17(2005)年7月にはDDS工場を開設した。

(*)王子工場は平成16(2004)年7月31日に閉鎖された。

平成19(2007)年10月、同社は創立70周年を機に総合油脂化学会社の枠を超えた多面化した業容を表すにふさわしく、また今後の事業領域の拡大を目指して社名を「日油株式会社」に変更した。現在の日油グループは「バイオから宇宙まで幅広い分野で新しい価値を創造し、人と社会に貢献する」を経営理念に掲げ、独創性のある製品を多面的に展開している。

  • 日産コンツェルンの本拠地「日産館」

    ※昭和12年7月、東京市芝区田村町(現・東京都港区西新橋1丁目)に竣工。(第一次)日本油脂はここを本社とした。

  • 平成16(2004)年6月に新設された大師工場

    画像協力 日油株式会社

  • 日油の赤色のロゴマーク 

    ※商売上縁起のよい小判の形を基調に、「日」を配したデザイン

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