高畑誠一の大活躍、離れ業
カイゼルを商人にしたような男と異名をとった高畑誠一
高畑誠一が鈴木商店ロンドン支店長として赴任した明治45(1912)年当時は大英帝国の絶頂期で、ロンドンは文字通り世界の政治、経済の中心であった。
ロンドンに着任して間もなく高畑は、サイゴン米を始めあらゆる商品の第三国貿易を手掛け、情報収集に注力したことが、第一次世界大戦時に大きな威力を発揮した。
ロンドンシティの中心部に近いミンシングレーンの一角にあった鈴木商店のロンドン事務所を拠点に、高畑は英国食糧省、船舶省を始め政府関係者との人脈を築く。さらに大戦が始まると連合国軍需品購買局に食い込み、大英帝国や連合国を相手に鉄材の買い付け、船舶・食糧品の売り込みに縦横な活躍をする。
食料品の注文が殺到すると高畑は、北海道の豆類、澱粉、雑穀類を満載した船もろとも売り渡すという「一船売り」の離れ業を敢行した。また、鈴木商店が英政府に売り込んだ小麦、小麦粉は膨大な量に達し、大戦中欧州の戦場では鈴木の商標(SZK・イン・ダイヤモンド)のついた大量の麻袋が、連合軍の塹壕の土嚢に利用されていたといわれた。
当時、スエズ運河を通過した船舶積荷の分量からいっても、鈴木商店関係は一割を占めていたといわれた。鈴木商店の信用は一気に高まり、英蘭銀行(イングランド銀行)から一度の交渉で、当時の邦貨で1億円という巨額のクレジットを得るほどになった。イギリスの海軍大臣のチャーチル(後の首相)は「カイゼル(ドイツ皇帝)を商人にしたような男」と評した。
第一次世界大戦が始まり、ストックボート(船舶の規格船見込み生産)を敢行した川崎造船所社長の松方幸次郎は、取引先との折衝のため鈴木商店ロンドン支店の一室を拠点にしていた。松方の思惑が当り、大儲けをした松方は、高畑と一緒にのぞいたオークションがきっかけで絵画をはじめ美術品の収集にのめり込む。後の「松方コレクション」である。
松方の美術品収集には鈴木商店も協力し、金子の指示で高畑は、度々買いつけ資金の便宜を図っていた。松方は、収集のかたわら著名な画家フランク・ブラングィンと知り合い、収集したコレクションを収蔵する幻の美術館「松方共楽美術館」の設計を依頼した。