大日本塩業(現・日塩)の歴史②

鈴木商店の破綻後も、旧鈴木系企業との関係は続く

大正13(1924)当時、大日本塩業の関東州塩の生産量は、全体の6割弱(日本人経営の塩田に限れば約9割)を占めた。また、大日本塩業は大正8(1919)年以降、中国・青島に塩田を開設した。

しかし大正11(1922)年、ワシントン会議の結果「山東懸案解決に関する条約」が締結され、日本が大戦の結果ドイツから得た権益を中国に返還することになった。この条約の中で、中国政府が日本人が開設した塩田を買収して賠償金を支払うことが取り決められ、同社も賠償金を受け取った。

第一次世界大戦の勃発により、日本はヨーロッパからの苛性ソーダ、ソーダ灰の輸入が減少・断絶した。このことが日本国内におけるソーダ工業の勃興を促し、以後、工業用塩の需要は増加する。そして同社も工業用塩を輸入し、自社船舶を保有して塩輸送のほか一般貨物の輸送も開始した。

昭和2(1927)年に鈴木商店が経営破綻すると、大日本塩業は存亡の危機にさらされた。しかし、鈴木商店の主力行であった台湾銀行の好意により、自社船を摂津商船と山下汽船に有利な価格で売却できたことなどから債務を弁済することができた。そして鈴木商店の大日本塩業の持ち株は、横浜正金銀行、台湾銀行が肩代わりすることとなり、経営陣は退陣した。

鈴木商店の経営破綻後、大日本塩業は関東州、台湾、朝鮮での塩田の経営や塩の輸移入を拡大していった。また、旧鈴木系企業との連携も深めていった。昭和13(1938)年には東京の蒲田に試験場を建設し、苦汁(にがり)から金属マグネシウムを抽出する研究を行い、昭和14(1939)年には鈴木商店の後継会社である太陽産業(現・太陽鉱工)(出資比率31.7%)、日商(現・双日)(同15%)等とともに関東州加里工業を設立し、取締役には鈴木商店出身の住田正一が加わった。

また同年、朝鮮の平安北道に金属マグネシウム製造工場である朝鮮神鋼金属を設立した。出資比率は神戸製鋼所70%、太陽産業15%、大日本塩業15%で、社長には浅田長平、取締役には高畑誠一が就任している。

戦後、日本は敗戦によって近海塩産地のすべてを失い、塩の供給が断たれた。大日本塩業は外地の塩田事業を主体とする会社であったため、敗戦によって受けた損失は甚大で、昭和21(1946)年にかつて金子直吉の片腕的存在であった鈴木商店出身の長崎英造が社長に就任したが、同社は「会社経理応急措置法」に基づく特別経理会社に指定された。

一方で昭和21(1946)年、同社は当時の役職員が出資して軍用飛行場跡地を利用した製塩を主な事業内容とする日塩興業を設立し、長崎英造が社長を務めた。しかし、日塩興業の事業は十分な成果をあげることなく終了した。

昭和22(1947)年2月、長崎栄造が大日本塩業の社長を辞任し、翌3月にやはり鈴木商店出身で日商(現・双日)の再起組であった北浜留松が大日本塩業として最後の社長に就任した。昭和24(1949)年2月、同社は会社の解散が認可されると同年3月に解散登記を行い、ここに大日本塩業の歴史に幕が下ろされた。

昭和24(1949)年3月、大日本塩業解散と同時に「企業再建整備法」に基づき第2会社「日塩株式会社」が設立され、初代社長には北浜留松が就任した。

昭和29(1954)年3月、北浜社長が亡くなり専務の安東直市が日塩の社長に就任した。安東は大正9(1920)年に鈴木商店に入社し、鈴木商店破綻後に太陽産業(現・太陽鉱工)に入社。帝国樟脳、東洋毛織、日輪ゴム工業(3社とも鈴木商店を源流とする)の取締役を経て、昭和20(1945)年に大日本塩業の取締役に就任。昭和24(1949)年の日塩創立時には専務取締役に就任していた。

  • 関東都督府白仁武民政長官一行による双島湾塩田視察
  • 朝鮮神鋼金属・新義州工場の苦汁貯蔵タンクと苦汁処理工場
  • 安東直一

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