大日本塩業(現・日塩)の歴史①
鈴木商店の経営参画、大日本塩業の誕生
大日本塩業(現・日塩)の前身である「日本食塩コークス」は、明治36(1903)年にコークス製造の余熱を利用して塩を再製する「余熱式再製塩法」の特許を取得して神戸市東尻池村に設立された。
神戸に設立された理由としては、台湾塩が神戸港に荷揚げされたこと、台湾塩は砂利塩とよばれ食料用には加工が必要であったためである。明治40(1907)年、同社は東京に東洋一の再製塩工場を建設した。
明治38(1905)年に戦費捻出、国内塩業保護・整備を目的として塩専売制が施行されると、関東州塩については日本食塩コークスが輸入取扱人に、台湾塩については愛知県知多郡半田の豪商・小栗富治郎が移入取扱人に指定されるとともに、両者ともに日本国内販売の特別元売捌人に指定された。
日露戦争後に天日製塩の好適地である関東州(遼東半島)が日本の租借地になると、関東都督府は明治39(1906)年に日本食塩コークス他3社と2個人のみに塩田開発の許可を与え、大規模開発を促した。この間、日本食塩コークスは明治39(1906)年には讃岐コークスを合併し、明治41年(1908)年に「大日本塩業」に改称している。
一方、鈴木商店は早くから専売事業と密接なつながりをもっていた。初代専売局長官・仁尾惟茂(高知県中村市出身)と第2代長官・浜口雄幸(高知市出身)と金子直吉が同じ土佐出身であったこと、また鈴木商店が専売制となった台湾産樟脳油の販売権を獲得したことも背景にある。
明治40(1907)年に小栗富治郎が経営する名古屋の小栗銀行が経営破綻した際に、同行の整理が難航したため、金子直吉はその整理の仕方について桂太郎首相から相談を受けた。
金子は桂の求めに応じ、鈴木商店は小栗が保有する台湾塩の一手販売権を継承し、台湾塩の日本国内への移出業務を担うため明治42(1909)年、受け皿として「東洋塩業」(明治43年、「台湾塩業」に改称)を設立し、その一手販売権を手掛かりにして事業価値を高めることで小栗銀行の整理を進めた。
金子は大蔵省専売局から煙草を扱う岩谷商会に入り活躍していた藤田謙一に白羽の矢を立てて東洋塩業に取締役(後・専務取締役)として迎え入れ、小栗銀行の整理および台湾塩の移出業務に当たらせると、藤田は持ち前の経営手腕を発揮し、東洋塩業の株式を小栗銀行の預金者に配分するという手法で預金者の保護をはかりつつ、同行の整理を完遂した。後に、金子は藤田を鈴木商店の幹部として重用し、関係会社各社の役員としても起用した。
鈴木商店は日本国内でも再製塩工場の設立を進めた。まず明治43(1910)年、北九州・大里に直営の再製塩工場を設立し、関東州塩・台湾塩を再製して販路を拡げていった。さらに大正7(1918)年、下関・彦島の日本金属彦島製錬所内に分工場として製錬所の余熱を利用した再製塩工場を建設した。
鈴木商店は台湾塩の一手販売権を獲得したが、当時日本の国内市場では大日本塩業の販路拡張により圧倒的なシェアを占めていた関東州塩へ関心を高めた。そして桂首相の紹介により関東州の普蘭店に、満漢塩業にかわって1,000町歩の塩田開発権を取得した。
さらに大正3(1914)年、鈴木商店は大日本塩業の株式の過半数を取得し、大正5(1916)年には藤田が同社の社長に就任した。大正6(1917)年、鈴木商店は台湾塩業を大日本塩業に合併させ、これにより大日本塩業は関東州塩、台湾塩を取り扱う一大塩田開発・輸移入業者となった。