大日本塩業(現・日塩)の歩み①
日本食塩コークスによる塩業への参入
日露戦争が勃発する前年の明治36(1903)年9月8日、神戸の素封家・室谷家を中心にして、塩の製造販売を主体とし、コークスの製造販売を副次的な業務とする「日本食塩コークス株式会社」(後・大日本塩業、現・日塩)が神戸市東尻池村232番屋敷(現在の神戸市長田区東尻池町)に創立された。
資本金は5万円。役員は社長 室谷藤七、常務取締役 中田延次、取締役支配人 宇尾清次、取締役 吉川久七、中村邦次郎、監査役 大井卜新、石川喜八郎。従業員は事務員8人 職長3人 工場監督7人 コークス・食塩職工37人 固型塩職工675人であった。
明治37(1904)年、同社は前記の中田延次が考案したコークス製造の余熱を利用して塩を再製する「余熱式再製塩法」の特許を取得し、本社所在地の兵庫運河沿いに再製塩工場を建設して台湾塩(後には関東州塩)を原料として再製塩の製造を開始した。
当時、同社は再製塩の製造について3つの条件に恵まれていた。その1は、コークス製造の余熱が塩の製造に利用できたこと、その2は、当時台湾塩が至近の神戸港に荷揚げされていたこと、その3は、天日塩である台湾塩は「砂利塩」とも呼ばれるほど品質が劣っていたため、食料用に供するには加工(再製)(*1)が必要だったことである。
(*1)天日塩は結晶が粗大であることや不純物の混入などにより、品質的にはそのまま使用できない場合が多かった。不純物を除去して純度を高めるには、塩を粉砕洗滌するか(洗滌原塩、洗滌塩、粉砕洗滌塩)、水・海水・鹹水(濃縮した塩水)などに溶解し、その溶解液を煎熬(煮詰めること)する(再製塩)必要があった。
同社は創立直後に勃発した日露戦争に際し、再製塩を加工した固型食塩と粉末味噌を製造して軍用に供したところ政府の称賛を受け、同時にコークスも軍の需要に応じきれないほどの売行きを示し、巨利を得た。
同社は関東地方にも販路を拡大するため製造拠点の新設を計画し明治39(1906)年12月、東京分工場用地として中川と小名木川との合流点付近の東京府南葛飾郡砂村大字又兵衛新田(現在の東京都江東区東砂2丁目)に7,938坪の用地を購入して工場の建設に着手した。
※明治40(1907)年前後から大正期にかけて、再製塩工場が東京、横浜を始めとして日本国内に数多く設立された。その背景には台湾塩と関東州塩の輸移入(*2)の増加に伴って、輸移入取扱人が輸移入した塩のすべてを販売する責任を負わされていたことから、原塩を再製することで販路を拡大しようとする意図があった。
(*2)外国から内地(日本国内)に入荷する塩を 「輸入塩」、当時日本が領有していた台湾などから内地に入荷する塩を「移入塩」と称して区別し、その両者を総合して「輸移入塩」と称した。日本の領土ではない租借地の中国・関東州から入荷する塩は「輸入塩」である。
この東京分工場は船輸送に便利な中川の下流沿岸に位置しており、明治40(1907)年10月にコークスの製造とあわせて台湾塩、関東州塩および河川の水を使用して再製塩の製造を開始した。この工場は当時としては東洋一の製塩工場であった。
東京分工場の製塩法は「コークス余熱煎熬法」で、概ね次のとおりであった。
「高さ2尺5寸、幅8尺、長さ10尺の煉瓦造りの建屋内部に根太(床を支える補強部材)を敷き、これに竹簀(細く割った竹を編んで作った敷物)を置いてその上に川砂1尺の層をつくり、上部から原塩を投入して河水を注いで溶解液を浸出させる。溶解を続けて液の浸出が緩慢になると、砂層の上部を約1寸除去する。この方法で精製した溶解液(鹹水)を自然の傾斜によって地下の貯水槽(古酒桶)に滴下させる。この鹹水を煎熬(煮詰めること)するために高架槽(古酒桶)に汲み上げ、内径2寸の管によって煎熬釜に移送する。コークス釜10基の余熱を利用する製塩釜は18基設置され、再製塩を昼夜交代で1日10.8トン、1カ月約180トン生産し、年間生産高は2,400トンに上った。」
当時わが国では品質に優れ、かつ低価格な外国塩に対する危機感が高まっており、加えて日露戦争のための膨大な戦費調達に苦慮していた政府は、国内塩業の保護・基盤整備と財政収入確保の両面から検討を重ねた結果、明治37(1904)年12月に「塩専売法」が成立した。
翌明治38(1905)年6月1日、塩専売制度が実施され、事務をつかさどる担当部署として大蔵省が管轄する塩務局(後・専売局)(*3)が設置された。
(*3)明治40(1907)年10月1日、煙草専売局、樟脳事務局、塩務局が統合され「専売局」になった。
これに伴い明治39(1906)年6月、関東州塩については日本食塩コークスが「輸入取扱人」に、台湾塩については愛知県知多郡半田町(現・半田市)の豪商・(二代目)小栗富治郎(小栗富治郎については「大日本塩業(現・日塩)の歩み③」で詳述)が「移入取扱人」に指定されるとともに、両者ともに輸移入塩の国内販売の「特別元売捌人」(*4)に指定された。
(*4)特別元売捌人制度は、大蔵省塩務局(後・専売局)が外塩の背負い込みを避けるため、「輸移入取扱人」にその年度内に輸移入数量すべての買受け・引取りをさせ、その者を「特別元売捌人」に指定し、輸移入塩を需要地に輸送して自らの手で売り捌く責任を負わせる制度である。
小栗富治郎については塩専売制度が実施される以前から台湾塩の移入取扱いを行ってきた実績が認められたものである。大日本塩業(*5)は、関東州塩の輸入取扱人(大日本塩業、満漢塩業、東洋製塩、2個人)の中でも圧倒的な取扱高を示した。
(*5)明治41(1908)年2月、日本食塩コークスは社名を「大日本塩業株式会社」に変更した。
当時は内地塩、台湾塩ともに不作であったため、日本はイギリス塩、アメリカ塩、ドイツ塩、清国塩、安南(ベトナム)塩などを輸入したが明治38(1905)年10月、日本食塩コークスは安南塩の「輸入取扱人」に指定された。大正6(1917)年12月には同社の後身である大日本塩業が鈴木商店系列の台湾塩業を合併し、これにより台湾塩についても「移入取扱人」に指定された。