大日本塩業(現・日塩)の歩み⑥

近海塩の増産に向けて、製塩に関係する多くの会社設立に参画

昭和12(1937)年以降、工業用塩の安定確保を主眼とした近海塩の増産計画が実施段階に入ると、外地の各所で塩業会社が設立された。これらの会社は現地法人であることが多く、現地政府と大蔵省専売局の指導の下で民間塩業会社の協力を得て設立されたが、大日本塩業はこれら6社のうち次の4社について出資などで関与した。

① 満州塩業(設立: 昭和11年4月、本店: 新京市大同大街301、同社出資比率: 32%)
② 山東塩業(設立: 昭和12年4月、本店: 青島市飾陶路22号、同社出資比率: 35%)
③ 南日本塩業(設立: 昭和13年6月、本店: 台南市清水町1丁目43番地、同社出資比率: 50%)
④ 華中塩業股份有限公司(設立: 昭和14年8月、本社: 上海、同社出資比率: 10%)

そのほか、同社は製塩とそれに関連する多くの会社設立に参画し、出資、役員派遣を行った。
そのうち、主たる出資会社は次のとおりである。

① 新日本運輸(設立:昭和11年6月、本店:大連市明治町8番地、同社出資比率: 84%)
・事業内容: 所有船舶の大日本塩業への賃貸、大日本塩業が関東州で産塩の積地としている場所での本船の船内作業・陸揚・搬出、関東州加里工業の製品の輸送、大日本塩業が京浜地区で管理する塩の倉出し、回送の下請

② 南樺太塩業(設立: 昭和13年4月、本店: 大泊町栄町東二条3丁目161番地、同社出資比率:29.5%、鈴木商店出身の役員: 社長 志水寅次郎、取締役 嶋内義治)
・事業内容: 塩販売業(昭和16年6月に樺太で塩専売制が実施された際には、塩の元売捌人(もとうりさばきにん)に指定された)、塩運送請負業、倉庫業

③ 東亜塩業(設立: 昭和16年11月、本店: 海南島楡林市緑町4番地、同社出資比率: 40%)

④ 朝鮮製塩工業(設立: 昭和17年2月、本店: 京城府長谷川町21番地、同社出資比率: 56.9%、鈴木商店出身の役員: 監査役 谷治之助)

⑤ 北海道塩業(設立: 昭和17年8月、本店: 札幌市南一条西7丁目、同社出資比率: 9.5%)

⑥ 台湾塩荷役(設立: 昭和19年2月、本店: 台南市安平948番地、同社出資比率: 39%)
・大日本塩業が台湾南部の安平支店を発展的に解消し、南日本塩業、台湾製塩とともに設立した会社。
・事業内容: 台湾塩の高雄回送、島外積出し、島内の海上(ジャン)()輸送、鉄道輸送

それまで、苦汁(にがり)は一部が豆腐の凝固用あるいは炭酸マグネシウムの製造などに利用されるに過ぎなかった。しかし、昭和16(1941)年12月の太平洋戦争突入に至る過程では工業用および肥料用のカリウム塩の輸入が途絶し、一方では航空機用燃料の爆発効果を高めるアンチノック剤としての臭素、航空機の生産に欠かせないジュラルミンの原料になる金属マグネシウムなどの需要が急増したことから、急遽これらの原料を苦汁から製造する計画が立てられた。

同社は、前記のとおり工業用塩の安定確保のため、関東州、台湾、朝鮮において塩田の拡張や塩の輸移入を強力に進めてきたが昭和13(1938)年、時代の要請もあって蒲田試験場(東京都大田区萩中町)を建設し、苦汁から金属マグネシウムを抽出する研究に取り組んだ。さらに、外地では次の各社の設立に参画し、これら各社を拠点にして苦汁利用工業に進出していった。

① 関東州加里工業(設立: 昭和14年5月、本店:大連市明治町8番地、出資比率: 太陽産業(現・太陽鉱工)31.7%、日商(現・双日)15%、鈴木商店出身の役員: 取締役 住田正一)
・事業内容: 大日本塩業の塩田から苦汁の供給を受け、塩化マグネシウム、煎熬(せんごう)塩、カーナリット(カーナライト)、硫酸ソーダ、硫酸マグネシウム等を製造

② 朝鮮神鋼金属(設立: 昭和14年8月、本店: 京城府中区南大門通4丁目76-1、出資比率: 神戸製鋼所70%、太陽産業(現・太陽鉱工)15%、大日本塩業15%、鈴木商店出身の役員: 社長 浅田長平、取締役 高畑誠一)
・事業地: 朝鮮平安北道新義
・事業内容: 金属マグネシウムの製造

③ 南日本化学工業(設立: 昭和14年10月、本店: 高雄市草衙424番地の1、出資比率: 大日本塩業25%)
・事業内容: 電解ソーダ、金属マグネシウム、カリウム塩、塩素酸カリウム、臭素などの製造

昭和16(1941)年8月30日、大日本塩業は株主総会において、定款に「塩ならびにその副産物を原料とする製品の製造および売買」等を追加した。これは苦汁中の塩化カリウム、臭素、塩化マグネシウム、塩田芒硝(ぼうしょう)(硫酸ソーダ)などはすでに前記の関東州加里工業で生産していたが、同社が直営で生産する方が有利な地域や関東州以外の地域では独自に苦汁生産物を製造し、塩の総合利用工業の樹立につとめようという意図であった。

昭和12(1937)年の日中戦争勃発以来、わが国では重要物資の統制が強化されていたが、塩についても昭和17(1942)年1月から家庭用塩の割当配給制度が実施された。輸移入塩も、輸送船の徴用による輸送力の減少や制海権が奪われたことにより海上輸送の危険度が増大したことから激減した。これに伴い、ソーダ工業塩の「自己輸入制度」も昭和17(1942)年4月に廃止された。

このため、政府は各種の塩増産対策を打ち出して補助金や交付金により国内での製塩の振興に務め、昭和17(1942)年11月には「自家用製塩」(昭和20年3月からは「自給製塩」となる)を許可した。これは、製塩業者以外にも補助金を交付した上で製塩を認めるもので、配給する塩の量を減少させるための施策であった。

しかし、このような努力にもかかわらず、太平洋戦争末期にはわが国の塩の輸移入量は激減し、国民の生命を維持するための最低限の塩の確保にも苦慮するほどの事態となった。このため、近海塩の増産には一層拍車がかけられた。

このような状況下で、同社はさらなる関東州の塩田開発を進めた。同社は、関東州北西部の普蘭店、五島に新たな土地を求めて塩田開発を行い、昭和19(1944)年時点の塩田面積は9,486町歩(昭和15年比、1,602町歩の増加)となった。また、同社は関東州の5カ所の加工塩工場(貔子窩、五島、三道湾、営城子、双島湾)において年間20万トンの粉砕加工塩を生産し、鋭意内地向けに輸出した。

一方、同社は台湾では昭和12(1937)年3月に野崎武吉郎が開発した布袋の塩田を譲り受けて以来生産を続けていたが、台湾全体の既設塩田を合同して施設の改善と経営の合理化をはかるという台湾専売局の方針に従い、この塩田を台湾製塩に譲渡した。

大日本塩業(現・日塩)の歩み⑦

  • 建設中の南日本塩業事務所
  • 朝鮮神鋼金属・新義州工場(苦汁処理工場) 
  • 大日本塩業安平出張所の倉庫跡(現・台南市)

    現在はガジュマルに覆われ、「安平樹屋」として保存されている。

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