大日本塩業(現・日塩)の歩み⑦

大日本塩業は特別経理会社に指定され、会社解散に至る

昭和20(1945)年8月14日、日本政府は米・英・中3カ国による「ポツダム宣言」を受諾し太平洋戦争は終結したが、過酷な戦争の末の敗戦により日本は近海塩産地のすべてを失った。これにより塩の供給の大きな道が断たれ、工業用塩だけでなく食料塩までも極度に欠乏する状況に陥った。

唯一の供給源であった国内塩も塩田の荒廃、石炭や労働力の不足に加えて昭和20(1945)年の台風(枕崎台風など)で大きな被害を蒙り、昭和22(1947)年の生産高は10万トンを切るまでに低落し、わが国はまさに塩飢饉状態となった。

この危機を乗り越えるため、前記の「自給製塩」の奨励も含めて国内塩の生産増加(新規塩田の開発と廃止塩田の復旧)と輸入再開に向けて必至の努力が続けられた。輸入の再開についてはGHQ(連合国軍総司令部)に懇請し、許可を受けた。

その後、昨日まで敵国であった中国側の好意とともに、最後まで青島にとどまって塩の輸出に努力したわが国塩業業者の並々ならぬ尽力により昭和21(1946)年2月、戦前から青島埠頭に貯蔵されていた青島塩のうち10,000トンが延慶丸によって横浜港に運ばれ、ようやく塩飢饉からの脱出口が見えた。

以後、中国塩が続々と輸入されるようになり、遠海塩についてもアデン塩その他の紅海塩やエジプト、スペインなどの地中海塩が輸入されるようになった。塩の飢餓状態にあった日本国民にとって、これら輸入塩の配給はまさに旱天(かんてん)の慈雨であった。

大日本塩業は敗戦により、明治末期から多額の投資を行い営々と築いてきた外地の塩田事業と在外資産のすべてを一朝にして失うことになり、その在外資産は当時の金額で約1億円(*)に上った。また昭和21(1946)年4月、同社の本社が入居していた東京・丸ノ内の「八重洲ビルヂング」はアメリカ軍士官の宿舎として接収され、本社を渋谷区田毎町に移転した。(昭和31年2月、「八重洲ビルヂング」は接収を解除され、本社は同ビルに復帰する。)

(*)在外資産1億円の内訳は、固定資産(塩田代価[10,188町歩]、運転設備、塩田以外の土地、家屋、什器、船舶等)が4,127万円、棚卸資産(貯塩、補修材料)が1,167万円、投資(在外会社への投資等)が2,999万円、その他(受取勘定、貸付金、受取手形)が1,697万円であった。

一方、同社は戦災をまぬがれた東京、横浜、名古屋、神戸の塩倉庫で塩の保管を主体とした倉庫業、運送業を軸にした営業を再開した。

昭和21(1946)年に入ると、大蔵省専売局は昭和22年度からの外国塩の輸入再開や国内塩の生産増強計画などに対応するため、単に輸送手段の確保だけでなく戦災で焼失した倉庫の復旧を急ぐ方針を打ち出した。

しかし、専売局だけで早急に倉庫を補充することは困難なため、同社および日本食塩回送の2社に保管能力の増強が委ねられ、倉庫の整備が完了すれば両社に塩の保管を委託することが決定された。同社は輸入地のうち東京、横浜、清水、名古屋、半田、四日市、神戸について倉庫の増設が割り当てられ、6,000坪の増設計画(*)を立てた。

(*)既設倉庫4,626坪とあわせると同社の倉庫面積は10,626坪になる計画であった。

昭和21(1946)年3月、同社はかつて金子直吉の片腕として情報収集に当たるともに、多くの鈴木商店系列企業の社長を務めた長崎英造が大日本塩業の社長に就任すると、同社の役職員が出資して軍用飛行場跡地を利用した製塩を主な事業内容とする「日塩興業株式会社」を設立し、経営再建につとめた。

旧軍用飛行場跡地の利用については、終戦直後の塩不足の緩和策であった「自給製塩」の一環として昭和20(1945)年12月に政府がGHQより24カ所の跡地について許可を受けたもので、同社は八代(熊本県)、香良洲(三重県)、徳島(徳島県)、加古川(兵庫県)の4カ所で製塩を行った。

【日塩興業の概要】
設立: 昭和21年3月12日、本店: 東京都麹町区丸の内2-6、資本金: 1,000万円、役員: 取締役社長 長崎英造(鈴木商店出身)、常務取締役 安東直市(鈴木商店出身)、鈴木丸衛(鈴木商店出身)、取締役 池上武顕(鈴木商店出身)、千葉八起、庄司雅一、丹下玄一、監査役 後藤金三郎、南治之介(鈴木商店出身)、鈴木正(鈴木商店出身)、事業内容: 製塩事業

しかし、これら飛行場跡地の塩田化は他社と同様に資金面、資材面、技術面などの事情で所期の成果をあげることができず、塩田面積、生産量ともに計画比約60%に終わった。

終戦後の数年はGHQの企業への厳しい姿勢により、同社にとって大試練の時期となった。政府は昭和21(1946)年5月28日の閣議において、「日本経済の民主化には、まず企業を健全にすることが肝要である」というGHQの意向に基づき、政府による戦時補償(*)を打ち切る方針を決定した。

(*)戦争によって民間の財産に損害を生じた場合に,政府がその損害を補償することをいう。

さらに、戦時補償の打ち切り措置に伴う経済界の混乱を防止するため、いわゆる「第2会社構想」を打ち出し、昭和21(1946)年8月15日に「会社経理応急措置法」が、同年10月30日に「企業再建整備法」が施行された。

同社は「会社経理応急措置法」に基づき、「特別経理会社」に指定され、戦時補償の請求権などの不確実な資産を旧勘定として凍結し、現金や商品などの確実な資産と負債だけを新勘定にする決算処理を行うことになった。

また、「企業再建整備法」に基づき、戦時補償打ち切りによる損失、在外資産の喪失による損失等を特別損失として確定し、それに対する積立金取崩し、減資等による穴埋めの方法と順序を定め、整理完了の後に新勘定を中心として第2会社を設立した上で、整理済みの旧勘定を統合して新会社に合併することになった。

昭和22(1947)年2月、同社は長崎英造が社長を辞任し、翌3月に鈴木商店出身の北浜留松が大日本塩業として最後の社長に就任した。

昭和23(1948)年2月12日、同社は「再建整備計画」を日本銀行に提出し、紆余曲折を経つつ昭和24(1949)年2月15日、同社は再建整備計画の認可を受けた。これにより、同月18日に会社(大日本塩業)の解散が認可され、同社は同年3月31日に解散登記を行い、ここに大日本塩業の歴史に幕が下ろされた。

明治36(1903)年9月に「日本食塩コークス」として神戸で呱々(ここ)の声をあげ、明治41(1908)年に社名を「大日本塩業」に変更し、関東州、台湾、朝鮮での塩田開発と産塩の内地への輸移入を主たる業務としてきた同社は、途中鈴木商店の傘下に入り、そして鈴木商店の経営破綻という大波にもまれながらも目覚ましい発展を遂げてきた。

また、同社は関東州では南満州鉄道や東洋拓殖(朝鮮)という国策会社には及ばないまでも、製塩会社としては産塩、再製、粉砕加工、回送、保管その他技術面でもリーダー的な存在として確固たる地盤を築いてきた。しかし、社名を「大日本塩業」に改称して40年余り、同社は敗戦による致命的なダメージを受け、解散を余儀なくされたのであった。

大日本塩業(現・日塩)の歩み⑧

  • 関東州の拠点であった大日本塩業大連支店
  • 会社解散許可通知書
  • 本社が入居していた東京・丸の内の「八重洲ビルヂング」

    昭和21年4月、GHQにより接収された。

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