大日本塩業(現・日塩)の歩み⑨
「輸入塩から国内塩への転換」という会社存亡にかかわる危機に直面
昭和30年代に入ると、わが国はそれまでの戦後復興期から高度成長期へと移行し、実際にそれは「神武景気」(昭和31年~32年)、「岩戸景気」(昭和34年~36年)となって現れ、「なべ底不況」(昭和32年~33年)を挟んで、さらに「いざなぎ景気」(昭和40年~45年)へとつながっていき、昭和43(1968)年には国民総生産(GNP)が西ドイツを抜いてアメリカに次ぐ自由世界第2位となり、文字どおり経済大国への道を突き進んでいった。
国内塩の分野においては、「塩業革命」と呼ばれるほど画期的な「入浜式塩田」から「流下式塩田」への転換が進み、昭和33年度には大半の塩田が流下式になった。これにより、国内塩の生産は飛躍的に増加し食料用塩の全量を自給できる見通しとなったが、一方でこのことが国内塩の在庫累増を招く結果ともなった。
一方、輸入塩は戦後から増加の一途をたどり、昭和31(1956)年7月に14年ぶりに再開されたソーダ工業用塩の「自己輸入制度」を背景に順調に推移していた。
昭和31(1956)年5月、国内塩の在庫累増を憂慮した専売公社は、輸入塩から国内塩へ転換(輸入塩の需要を国内塩に転換)する方針を発表した。具体的には、それまでの家庭用には国内塩を使用し、味噌、醤油、漬物、水産などの業務用には輸入塩を使用するといった消費形態を改め、業務用塩の消費を輸入塩から国内塩に転換する施策が進められた。
この転換施策は醤油、水産、合成染料などの分野を除き全体としては順調に進み、昭和33年度には味噌、漬物用では100%国内塩に転換され、水産用でも輸入粉砕塩の使用は大幅に減少した。
しかし、この転換施策は、当時売上の大半が輸入塩であった日塩にとってはまさに青天の霹靂、会社存亡にかかわる問題であり、在外資産のすべてを失い、苦しい出発となった同社が社員一同の懸命の努力によってようやく一息ついたところで直面した一大事であった。
この施策実行による輸入塩の減少により、同社は倉庫保管、荷役作業、加工包装、運送、輸入業務にわたる全部門において売り上げの減少を来し、総売上高は昭和31年度の7億9,400万円から昭和32年度は5億1,700万円、昭和33年度は3億3,700万円と激減し、昭和33年度は日塩創立以来、初の赤字決算となった。
同社はこの危機的な事態を克服すべく、「国内塩の増産計画によって輸入塩の取扱高が減少するのは必然である」との認識に立ち、必至の生き残り策を模索して次の方針を打ち出した。
① 会社資産(倉庫)の活用
輸入塩のみの単品取扱いから脱却し、専売公社の協力を得て輸入塩以外の専売品(国内塩、国産葉たばこ、輸入葉たばこ)の取扱い、さらに民間の一般貨物の取扱いへと領域を広げていく。同時に一般貨物の保管に適するよう倉庫の改修を進める。
② 貿易業務の拡大
それまでの塩の輸入に加えて、葉たばこの輸入についても意欲的な取組みをスタートさせる。
③ 新規事業への取組み
京都に日染株式会社を設立する。(後記詳述)
④ 合理化(人員整理)の実施
戦後、在外事業所からの引揚げ社員および復員社員を雇用していたが、昭和33(1958)年の人員整理による希望退職者は20数名になった。
この方針に従い、同社は昭和31(1956)年11月より専売公社の国産葉たばこの保管を横浜出張所と東京出張所で開始し、昭和33(1958)年の横浜出張所を皮切りに一般貨物の保管にも進出した。
昭和37(1962)年5月には、倉庫業法の改正に伴って引き続き倉庫業の許可を東京、横浜、名古屋、四日市、神戸で受けるとともに、倉庫の改修と荷役設備の改善を行い、積極的な営業活動による一般貨物の誘致に務めた。
同社は昭和33(1958)年から昭和43 (1968)年にかけて、日清製油神奈川工場の製品、輸入食料(小麦、大麦)、輸入油脂原料(菜種、綿実、コプラ)、東京芝浦電機横浜営業所の家電製品、山根運輸のパルプ、二葉組回漕店の原皮、皮革、農水産物、青果物、神奈川食糧事務所の国産米穀、日商岩井の石綿、蛭石(バーミキュライト)、ソーダ灰などの一般貨物の保管を開始している。
葉たばこの輸入については、同社が中国産葉たばこに取分け強い期待をもって長期的に尽力してきた分野(結果的には実現しなかった)であり昭和31(1956)年、専売公社の輸入委託を受けてアメリカ葉の輸入を開始した。その後、同社はギリシア葉、トルコ葉、ローデシア葉についても輸入委託を受けた。
この時期、同社は繊維製品の染色事業に進出した。昭和31(1956)年11月26日、同社は日染株式会社を設立し、社長には日塩の専務取締役・池田五六(後・日塩社長)が就任し、本社を日塩の社内に置いた。工場は京都市北区の既設工場を大日本スクリーン製造から譲り受け、オフセット捺染輪転機一式を設置して操業を開始した。
日塩は日染の総代理店となって受注・販売活動を行い、日染は日塩の委託を受けて衣料品原反の柄物の捺染、包装布の文字・マークの捺染、壁張布の色染め、防災加工、自社ブランドのインテリア壁紙「モノダイクロス」の製造ほか他社からの委託加工も行ったが昭和45(1970)年12月10日、日塩の経営方針の転換により同社は解散した。
昭和40年代前半になると、昭和35(1960)年から工業化試験を開始していた「イオン交換膜製塩法」(*)が試験段階を終え、コスト面でも塩田製塩法より安価に生産できるレベルに達した。
(*) 「イオン交換膜製塩法」はイオン交換膜と電気エネルギーを利用して鹹水(濃縮した塩水)をつくり、これを煮詰める製塩法で、工場の面積はそれまでの1 万分の1 に節減され、生産量は7 倍以上に急増したといわれる。イオン交換膜製塩法の導入によって日本の製塩法は近代的な装置産業へと変貌を遂げ、入浜式塩田から流下式塩田への転換に続いて日本の製塩業界にさらなる大変革をもたらした。
その後、アメリカが昭和46(1971)年に発表した緊急経済対策「ニクソンショック」の衝撃に加え、昭和48(1973)年10月の第4次中東戦争に端を発する「第1次オイルショック」により、日本経済は高度成長期の終焉を迎えた。
専売公社は昭和46(1971)年1月の塩審議会による「塩産業近代化方策要綱」の答申に基づいて予算と法的措置を行い、昭和47年度には臨時塩業近代化審議会の答申に基づき、新日本化学工業をはじめとする7社による「イオン交換膜製塩法」への全面転換が実現した。これにより、中世から続いてきた農耕的な生産方式であった塩田製塩は完全に姿を消すこととなった。
昭和52(1977)年から高速道路の凍結防止用に初めて輸入塩(粉砕塩および原塩)が使用された。わが国に自動車専用高速道路が建設されたのは東海道新幹線の営業開始の翌年、昭和40(1965)年7月に開通した名古屋・神戸間の名神高速道路が最初であり、4年後の昭和44(1969)年5月には東京・名古屋間の東名高速道路が開通した。
その後も、列島縦断・横断、観光用、産業用にと道路網の整備には目覚ましいものがあったが、冬季の路面凍結防止用に「氷点降下」という性質(純粋な液体の時よりも、他の物質を溶かした時の方が凝固点が低くなる性質)を利用して塩が使用されるようになったのは、昭和50年代になってからである。
それまで道路管理者は、塩化マグネシウムや塩化カルシウムなどの化学製品を使用していた。塩(塩化ナトリウム)は速効性においてはこれらに劣るとしても、塩は気温マイナス12℃までは使用可能であり、なによりも価格が塩化カルシウムの3分の1という経済性が重視された。
昭和59(1984)年1月から3月にかけての異例の豪雪の際には広範囲にわたる売渡側や需要者側から同社に注文が殺到した。供給地域は東北南部、関東、北陸、中部の全域にわたり、同社の横浜支店、名古屋支店の供給基地は急遽3交替制に編成替えを行い、粉砕加工作業、発送業務に昼夜の別なく全力を傾注した。
この年の融氷雪用塩の供給量は異例の多さであったが、その後も高速道路の延長により、融氷雪用塩は輸入塩にとって冬季における最大の需要となって定着していった。