大日本塩業(現・日塩)の歩み⑩
塩専売制度の終焉を迎え、塩依存体質からの脱却をはかる
昭和50年代の後半、わが国は昭和54(1979)年のイラン革命に端を発する「第2次オイルショック」の影響を受け、3年間にわたる戦後最長の不況と欧米との貿易摩擦の激化という内憂外患に見舞われた。
当時、わが国は昭和48(1973)年秋に起こった「第1次オイルショック」の後遺症ともいうべき国債残高の急増により財政の悪化が急速に進行していたため、歳出抑制による財政再建を進めることになり、その後行政改革とドッキングした「行財政改革」が政治課題となっていた。
昭和56(1981)年3月16日、この行財政改革を審議するため内閣総理大臣の諮問機関として「増税なき財政再建」をテーマに「第二次臨時行政調査会」(第二臨調、会長:土光敏夫)が発足し、「第4部会」(三公社五現業、特殊法人等の在り方)において「たばこと塩の専売事業の在り方」について審議がなされた。
昭和57(1982)年7月30日、第4部会の報告を受けた第二臨調は政府に答申を提出した。この答申の中で、塩事業については「塩産業の自立化が得られた段階で現行の専売制度を廃止する。ただし、廃止するまでの間、塩専売事業にかかわる業務は特殊会社が行う」という内容が盛り込まれた。
この答申を受けて、政府において公社制度の改革にあわせた塩専売法改定案の作成が進められ昭和59(1982)年4月16日、専売改革関連6法案(塩専売法、たばこ事業法、日本たばこ産業株式会社法、関連3法)が国会に上程され8月3日、可決された。
昭和60(1985)年4月1日、「塩専売法」が施行された。また、同日付で「日本たばこ産業株式会社」(略称:JT)が設立され、塩専売事業本部が同社内に設置されて塩専売事業を担当することになった。
昭和60年代に入ると昭和60(1985)年9月の「プラザ合意」により輸出産業は大打撃を受け、民間設備投資も大きく落ち込み、いわゆる「円高不況」に突入した。ところが、「プラザ合意」以降に超金融緩和による急激な内需拡大策が実施されると、わが国は昭和61(1986)年後半から一転していわゆる「バブル景気」に突入した。しかし、平成元(1989)年以降の日本銀行による金融引締め政策と平成2(1990)年の大蔵省による不動産業融資の総量規制により、平成3(1991)年にはバブル景気はもろくも終焉を迎えた。
当時の同社の経営は「塩業務」と「物流業務」の2本柱によって支えられていた。しかし、太く強い塩業務にくらべて物流業務は細く弱いものであった。しかも、塩業務も将来にわたって万全なものとはいえなかった。
そこで、同社は塩依存体質から脱却して経営の多角化をはかる方向を目指すことになり平成3(1991)年9月、物流新規分野への進出を目的とする営業開発プロジェクトチーム(平成4年3月より「D&Iチーム」)が結成され、それまでの受動的な倉庫業からの脱却をはかるべく物流業務の強化に乗り出した。
具体的には、定温倉庫の開設(平成3年11月、神戸支店)、トランクルーム事業への進出(平成4年4月、横浜支店)、運送会社「ニコム物流」の設立(平成5年3月、名古屋支店)、輸入葉たばこの保管開始(平成5年8月、名古屋支店)などの新事業を開始した。
平成7(1995)年11月、「たばこ事業等審議会」は塩事業専門部会より「今後の製塩事業の在り方」に関する最終報告を受け、同審議会はこれを了承して答申として大蔵大臣に提出した。政府はこの答申に沿って塩事業法案を国会に提出し平成8(1996)年5月9日、「塩事業法」(平成9年4月1日施行)が制定された。この法律の制定により「塩専売法」は廃止され、平成9(1997)年3月31日をもって塩専売制度は廃止された。
新しい塩事業法の下での塩の流通は、激変緩和のため5年間は経過措置が設けられたが、基本的には原則自由のマーケットに委ねられることになり、優勝劣敗の熾烈なサバイバル競争という同社にとっては創立(昭和24年3月31日)以来の一大変革期に突入した。
同社は塩事業法の規定に基づき、輸入塩の粉砕加工を行う製造業者としての登録を済ませ、粉砕塩の製造販売を行うことになった。この場合も原則的には原料塩の調達はもとより、販売についても販売方法、販売価格ともに製造業者の自由意思に委ねられることになった。
輸入塩加工包装業界の自主取引塩は、在来規格の粉砕塩だけでは多様なニーズに応えられないと見られたため平成9(1997)年4月、同社は「粉砕天日塩」を、翌平成10(1998)年4月には粗粒粉砕塩「あらびき天日塩」を発売し、平成10(1998)年からはいずれも「にちえんそると」の1ブランドとして発売した。
自社ブランド「にちえんそると」は、塩専売制度廃止後の自主取引塩の発売にそなえて、自社ブランド製品の名称を社員と家族から懸賞付きで募集し、応募370点の中から採用されたもので平成8(1996)年7月、商標登録を出願した。
続いて平成9(1997)年4月、同社は新たな経営基盤を構築すべくシンボルマークを変更した。新しいシンボルマークは日塩(NICHIEN)の頭文字である "N" をデザインしたもので、会社の基軸となる塩、物流、貿易、新事業の4分野を象徴したものである。このシンボルマークも商標登録を出願した。
平成11(1999)年3月31日、同社は創立50周年を迎えた。本社(東京都千代田区丸の内2丁目の「丸の内八重洲ビル」内)大会議室において「創立50周年記念行事」が開催され、鍋島喜夫社長からは次の骨子の所信表明があった。
「わが社を取り巻く環境はますます厳しさを増し、特に2年前に塩専売制が廃止されたことは、完全自由化までに多少経過期間があるものの、基幹事業に与える影響は計り知れないものがある。しかし、どのような厳しい環境であれ、先輩が築いた多くの資産を引き継いだ私たちの責務は、新しい時代に向って発想の転換をはかり、新たな目標を立て、人心を結集して、一歩一歩階段を登りつめることで確固たる地歩を固めていくことにある。」
日塩は、前身の大日本塩業の業務を継承して昭和24(1949)年3月31日に誕生したが、その道程は発展を遂げつつも苦難の連続であった。同社の発足当時は敗戦により大日本塩業が関東州などで営々と築いてきた在外資産のすべてを失ったため、わずかに残っていた塩倉庫の活用を中心にした業務を営むとともに、海外からの引揚者、復員者を吸収しての苦しい再出発であった。
その後、昭和26(1951)年6月の朝鮮戦争の勃発による特需景気、昭和27(1952)年7月の塩の運送元請複数制度の実施による運送元請としての指名復活により愁眉を開いたのも束の間、昭和31(1956)年5月には専売公社より「輸入塩から国内塩への転換方針」が打ち出された。
この施策の実施は、当時輸入塩の取扱業務が同社の業務の大半であった同社にとっては、文字通り会社の屋台骨を揺さぶる一大事であった。同社はこの苦境を乗り切るため、大蔵省専売局の指導・協力を得て塩依存体質からの脱却をはかるべく物流事業など他部門の育成、新規事業の開拓、人員整理を含むリストラの実行などを実施し、難局を乗り越えていった。
その後、90年余におよんだ塩専売制度が終焉を迎え、専売制という強固なシステムによりガードされていた状況から一転して完全自由化時代を迎えた現在の日塩は、長年にわたって培ってきた塩事業の歴史と伝統を基盤としつつ、塩部門(*1)、物流部門(*2)、貿易部門(*3)の柱を中心に、"内外商流を創造する" 総合物流企業として躍進を続けている。
(*1) 外国塩の輸入、輸入塩を使用した「にちえんそると」ブランドの天日原塩、天日粉砕塩、天日白撰塩、凍結防止剤、ボイラー用塩等の製造・包装販売。
(*2)東京、横浜、名古屋、神戸を中心に延べ60,000㎡強の倉庫を保有し、各種内外貨物の保管・輸送を中心に、定温倉庫、燻蒸倉庫、トランクルームなども提供。
(*3)ニーズに応えて、あらゆる商品の輸出入を実施。特に通関業務をはじめ保税倉庫やドレイジ(顧客のところまでコンテナを運ぶこと)、トラック輸送等、輸出入手続きに伴う付帯業務は同社独自の物流施設や機能を活用し対応。