造船業への進出、播磨造船所・鳥羽造船所の設立

海運業の兼営と播磨造船所・鳥羽造船所の拡充

鈴木商店は大正2(1913)年、「船舶部」の誕生といわれる「南満州汽船株式会社」を関東州大連に設立し、所有船の大連置籍により海運業へ本格的に乗り出した。大正初めの鈴木商店船舶部の所有船舶は、5,000トン型4隻、3,000トン型3隻を有し、太平洋航路に我が国初のトランパー(不定期船)の運航を開始した。

こうした折、大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発した。船舶不足と船価高騰を予想した金子直吉は、造船業への進出を急いだ。鈴木商店はロンドン支店長高畑誠一を通じ、一万トン級と五千トン級の貨物船の設計を英国のエンジニアに依頼するとともに資材の確保を進め、国内では辻湊を起用して造船所用地の確保と既設造船所の買収をめざした。

兵庫県相生の播磨造船と三重県鳥羽の鳥羽造船所はこうした既設造船所であった。播磨造船は6,000トンのドックを有する造船所で、明治45(1912)年から修繕船の入渠が相次いでいたが、規模が小さく収益があがらなかったので、第一次世界大戦勃発という好機を活かすことができなかった。大正4(1915)年、相生町長唐端清太郎は鈴木商店を訪ね「会社の買収と工場の拡張」を申し入れ、金子は川崎造船所の社長松方幸次郎等の意見を聞いて播磨造船の買収を決断する。大正5(1916)年4月、鈴木商店は播磨造船の事業を継承して「株式会社播磨造船所」を設立、膨大な資本を相生に投下し造船所の拡張を行った。

鈴木商店は海面を埋立て、造船工場・機械工場・発電所等を建設、播磨造船所は4船台を有する大造船所に成長する。工員は、買収直前大正5(1916)年3月の252名から大正8(1919)年12月には6,372名に増加し、町内各地に大規模な社宅街が建設された。鈴木商店は平田保三工場支配人のもとに、北村徳太郎ら少壮の社員を送り込み、事務・医療・労務を担当させた。当時の先端産業である造船業によって相生の町は近代化し、福利厚生を担った少壮社員たちの活動は相生という町に新しい思想や文化をもたらした。

通常、船舶は受注生産で建造される。しかし、金子は「船主の申し出を待って注文生産で船を建造するようなことは古い。同じ型の船をレディメードの形態で繰り返し建造し、ストックボートとして売るのが得策である」と考えていた。この考えに基づき、大正7(1918)年に入ると、播磨造船所は第8與禰丸・八重丸・與禰丸といった1万重量トン級の大型貨物船を相次いで建造した。これらの貨物船は鈴木商店の海運部門である帝国汽船に配属され、一部は船鉄交換船としてアメリカに輸出された。 

一方、鳥羽造船所は明治11(1878)年、鳥羽の士族等が合資して開業した。明治30(1897)年以降は安田善次郎等により積極経営が展開されたが、日露戦争の終結とともに造船ブームが過ぎ去り、さすがの安田も撤退を余儀なくされた。

その後、鳥羽造船所は四日市鉄工所および中央鉄工所の経営に移るが、造船事業に不慣れなため廃業寸前の危機に陥る。大正5(1916)年、この状況を打開するため御木本幸吉等地元の有志は鈴木商店に造船所の買収を申し入れ、金子直吉は買収を決断し鳥羽造船所の事業を継承して「株式会社鳥羽造船所」を設立した。

鳥羽造船所は播磨造船所の専務を兼務する辻湊が経営の指揮を執った。辻は造船部門については4,000トン級までの中・小型船の建造を中心に運営する一方で大正6(1917)年5月、造船所の一隅に電機試作工場を設け、電気係を組織する。同年、小田嶋修三が入社すると鳥羽電機製作所は最大のヒット製品、人造絹糸製造用の「ポットモーター」をはじめ、特徴ある電機製品を次々に生み出していった。

大正7(1918)年、播磨造船所と鳥羽造船所は帝国汽船に合併され、帝国汽船播磨造船工場、鳥羽造船工場となる。さらに、大正10(1921)年、両造船工場は神戸製鋼所に合併され、神戸製鋼所播磨造船工場、鳥羽造船工場となる。

鈴木商店経営破綻後の昭和4(1929)年、神戸製鋼所は播磨造船工場を分離独立させ、新生播磨造船所として再出発する。これに先立つ昭和2(1927)年、神戸製鋼所は鳥羽造船工場の造船・起重機部門を播磨造船工場に統合したが、この時電機部門は神戸製鋼所に残され、鳥羽電機製作工場として再スタートを切った。(その後、神鋼電機を経て、現・シンフォニアテクノロジーに発展)

関連リンク

  • 買収当時の造船所
  • 播磨造船所(マッチ箱)
  • 播磨造船所(大正8年頃)
  • 播磨造船所の社宅群
  • 鈴木商店時代から残る倉庫(IHI相生工場内)

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