鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史⑪

創業100年を迎え、さらなる飛躍を目指す

平成2(1990)年以降にもろくもバブル経済が崩壊すると、円高の進行と相まって企業の投資意欲は一気に冷え込み、同社を取り巻く事業環境は非常に厳しいものとなった。一時的にはパチンコのプリペードカード発行機(CR機)の爆発的な販売という神風により黒字を達成したものの、一向に不況が収まらない中の平成8(1996)年6月、鈴木昭男は社長を退任し、同社副社長(神戸製鋼所加古川製鉄所長専務取締役から転身)の西崎允が第8代社長に就任した。

同社の極めて厳しい状況を十分に心得ていた西崎は、徹底したコストダウンと「出る杭を伸ばす」企業風土づくりに邁進し、「不況を言い訳にしない」ことを社員に訴えた。同社は航空・宇宙分野、公共分野、クリーン搬送分野などに活路を求めたが、平成9(1997)年4月の消費税引き上げ、政府の引締め策により脆弱であった景気の腰が折れ、さらに大手金融機関の破綻が相次ぐなど、わが国は不況一色に覆われていった。

これに伴い、平成10(1998)年度の同社の売上高は大幅に減少し、大幅な赤字を計上するとともに累積損失は再び膨らむこととなった。平成11(1999)年2月、同社は事業のリストラ、早期退職・一時帰休を柱とする経営合理化計画を策定した。平成12(2000)年6月、会社再生の道筋を示した西崎は社長を退任し、佐伯(さえき)(ひろ)(ぶみ)が同社再建の切り札として神戸製鋼所専務取締役から転身し第9代社長に就任した。

機械やプラント事業で辣腕営業マンとして実績を挙げ、海外経験も豊富であった佐伯は業績が冴えないのは内部に問題があり、多くの無駄がはびこっていると指摘し、「数字への厳しさ」と「自己責任」を訴え、攻めの経営への転換と営業主導の方針を掲げた。さらに、佐伯は「各部門でトップになること」を強く求めるとともに、積極的な広報活動(佐伯自らメディアへの広告塔を務めた)、実力本位の人事改革、労働環境の改善、ムダ撲滅運動、工場革新運動などの諸施策を強力に推進していった。

同社はこれらの諸施策の実行と合わせてプリンタ事業へ注力し、また伝統ある電磁クラッチ・ブレーキ事業の復活をはかるとともにバッテリーフォークリフト事業、半導体・液晶搬送事業を売却し事業の構造改革を進めた。その結果、平成14(2002)年度には累積損失の一掃を実現し、翌期には復配を実現した。

平成16(2004)年度は大幅な増収増益となり、3カ年の中期経営計画を1年前倒しで達成し、有利子負債も大幅に削減された。平成18(2006)年、同社は同社株式における神戸製鋼所の持分が20%を下回り、神戸製鋼所の関連会社から外れることとなった。

同社はその後も営業改革に着手するなど企業体質強化策を推進していったが平成19(2007)年6月、強力なリーダーシップとブレない経営方針をもって同社自立への道筋をつけた佐伯は社長を退任して会長に就任し、神戸製鋼所出身ではあるが生え抜き同然の安井強副社長が第10代社長に就任した。準プロパーとも言える安井が社長に就任した背景には、天下りの弊害を痛感していた佐伯の、後任社長は神戸製鋼所からの天下りではなく生え抜きにすべき、との強い思いがあった。

安井は最大の課題を受注量の拡大に定め、単品商品からアッセンブリング製品へ付加価値を広げた販売戦略への方向転換とあわせて、同社製品の競争力向上に努めることを指示した。安井が受注拡大のもう一つの柱と位置付けたのが海外販売の拡大であり、海外売上比率を12%から30%にまで引き上げることを号令した。

平成20(2008)年3月28日、同社は平成21(2009)年4月から社名を神鋼電機株式会社から「シンフォニアテクノロジー株式会社」に変更することを発表した。

同社は佐伯社長時代の平成19(2007)年から新たなコーポレートブランドの検討を続けてきたが、①創業90年を経過したことを契機に次なる飛躍のために新たな価値の追求により従業員の意志の再結集を目指すこと、②同社は一般に「中堅重電機メーカー」と紹介されているが、もはや「電機」だけでは言い表すことが出来ない事業体となっており、社名と事業内容が一致していないこと、が社名変更の理由であった。社名変更とあわせてコーポレートステートメントは「響いてこそ技術」とされた。

平成20(2008)年9月15日、リーマン・ショックの激震が日本経済を襲い、同社の平成20(2008)年度は売上高も利益も急激に落ち込んだが、かろうじて経常赤字は免れた。このことは、それまで継続してきたムダ撲滅運動や工場革新運動などによる企業体質強化の効果でもあった。平成21(2009)年4月1日、同社はこのような状況下で「シンフォニアテクノロジー」としてのスタートを切った。

平成21(2009)年6月、安井が社長を、佐伯が会長を退任し、専務取締役の武藤昌三が第11代社長に就任した。武藤は神鋼電機に入社以来一貫して技術畑を歩み、同社の隅々まで熟知しており、正に純プロパーの社長の誕生であった。

平成21(2009)年度はリーマン・ショックによる不況の影響が色濃く残り、同社は経常赤字に転落したものの、不況下でも常に前向きなプランを示すのが経営哲学である武藤は、中期経営計画の策定に当たり「エコ」(商標登録「ECOing」)と「海外」を旗印に掲げ、地球温暖化問題をビジネスチャンスに活かすとともに、グローバル事業拡大に向けて海外の製造・販売拠点を拡充した。また、武藤は自らが広告塔になることを宣言し、新社名の周知、同社の知名度向上のために奔走した。

平成23(2011)年、武藤は人材教育の重要性を訴え、幹部人材教育のため「昌下村塾」を開講すると、自ら塾長を務め、経営陣を講師として次世代の経営陣養成に努めた。平成25(2013)年には同塾で議論が重ねられ、「企業理念」と10カ条からなる「行動指針」(SINFONIA-WAY)が制定された。

平成27(2015)年6月、純プロパーの古谷(ふるたに)(こう)(ぞう)が第12代社長に就任し、平成29(2017)年5月1日には同社創業100年を迎えた。平成30(2018)年には古谷からやはり純プロパーの斉藤文則がバトンを受け、第13代社長に就任したが、数々の試練や困難を乗り越えてきた同社はすでに次の100年に目を向け、着実に企業としての基盤強化を進めつつ、さらなる飛躍を目指し挑戦を続けている。

同社が創業100年を迎えるに当たり、古谷は自ら「新たな挑戦のスタート、つなぐ心で次の100年へ」と題する次のメッセージを全グループ社員へ送った。

(さかのぼ)ること100年前、創業者の(つじ)(みなと)は数人の技術者を集め、鳥羽の造船所の片隅にわずか100坪の電機試作工場を作りました。それは一枚の図面もない、みすぼらしい小工場だったそうです。しかし、技術者の意気はすこぶる軒昂で、その志は壮大なものであったと、記録には残っています。これがシンフォニア『技術オリエンテッド』の原点であり、『一歩先を行く技術』への挑戦の始まりです。当社の歩みは、まさに挑戦の歴史でした。一握りの成功のため、多くの失敗を積み重ねたかもしれません。この原動力となったのは、創業から続く『一歩先を行く技術』への挑戦を、社員一人ひとりが続けてきたことです。これこそ、シンフォニア100年の最も大きな遺産であり、先輩から脈々と受け継がれてきたDNAであると私は信じています」(抜粋)

  • 伊勢製作所(旧・山田工場)の総合ビル(平成20年8月竣工)
  • シンフォニアテクノロジー(タイ)の工場
  • 創業100年記念ロゴ

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