帝人設立の歴史②
二人の東京帝国大学生(久村清太と秦逸三)、そして金子直吉との出会い
日本で最初にヴィスコースの研究(セルロース繊維再生方法の研究)を行ったのは久村清太(くむらせいた)といわれている。久村は東京帝国大学工科大学応用化学科在学中に、東京の太陽レザー製造所という町工場でアルバイトをしていた。久村はすぐにその才能が認められて給料も上がり、太陽レザーでヴィスコースの研究に夢中となり、結局東京帝国大学は退学することになる。
久村はレザー(模造皮革)の艶を消す方法を生み出し、「艶消しレザー」と呼ばれる特許を取得。この特許に対して金子直吉と鈴木商店傘下の東レザーの松島誠の目が止まる。そして鈴木商店、太陽レザーが出資し、また久村も特許を現物出資することで明治40(1907)年に東京レザー合資会社を設立。(同社は翌明治41年に鈴木商店系列の東レザー(株)に吸収合併され久村は同社の技師長となり、大阪に赴任する) これが久村と金子直吉との出会いであった。そして久村はレザーの研究の傍らヴィスコースの研究を行い、人絹の製造にまで研究を発展させていく。
一方、久村の東京帝国大学の同窓に秦逸三(はたいつぞう)がいた。ただし久村は教室に出てこないので二人は顔を知っている程度であった。秦は大学で油脂を専攻し、卒業後の明治41(1908)年に樟脳専売局神戸製造所に赴任した。翌年には神戸税関に転職し、輸入人絹糸の通関業務を担当した。しかし大学で専攻した応用化学を活かす仕事をしたいと思い、当時神戸で急速に成長し、樟脳を取り扱っていた鈴木商店の金子直吉の自宅を訪問し、就職の相談を行う。当時は日本セルロイド人造絹糸(株)が設立された時期でもあり、人絹の事業化に非常に強い関心をもっていた金子は秦に「それならばひとつ人絹でも研究したらどうか」と勧めたという。
その後、秦は久村を東レザーの研究室に訪ね、久村は人絹について語り、秦自身も人絹製造の研究について興味を深めることになる。
秦は、その後金子から具体的な仕事の斡旋の話しが無いため、明治45(1912)年に米沢高等工業学校の応用化学科の講師(後・教授)となった。そして金子、久村の人絹に関する話を思い出し、米沢で人絹製造の研究をすると決心するのであった。