北九州大里にて工業団地を設立、製糖・製粉への進出
北九州・大里への進出、大里製糖所をきっかけに鈴木の第二の工業団地に発展
洋糖商として確固たる地歩を築こうとする鈴木商店にとって、製糖部門への進出は緊急の課題であり、当初政府補助奨励金によって台湾基隆(キールン)に製糖工場を建設しようとするも、後藤新平と鈴木商店との関係を追及されたりしたため断念した。一方国内では、関西糖業界を牛耳っていた日本製糖の横暴な振る舞いに対抗する必要から北九州・大里にて大里製糖所(現・関門製糖)の設立に着手した。
当初民間企業による製糖事業は無謀といわれたが、大里の水質、豊富な石炭と労賃、原料であるジャワ糖の輸入コストの面で大里に利点があり、勝算ありと金子直吉は目論んだ。大里製糖所が稼働するとたちまち大日本精糖を圧倒し、大日本精糖は降参する形で大里製糖所の買収を持ち掛ける。そして金子直吉は販売権を残したまま譲渡に応じ巨額の利益を上げ、これが鈴木商店の多角化展開の原資となった。
鈴木商店は大里の地の利を活かし、明治44(1911)年大里製粉所を設立した。後に鈴木系の札幌製粉、日本製粉、東亜製粉と合併し、日本製粉からニップンへ社名変更して現在に続く。
その後、大里地区の臨海部には、大里製塩所、帝國麦酒(現・サッポロビール)、麦酒瓶製造の大里硝子製造所、大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)、大里倉庫(現・岡野バルブ製造)、大里製銅、神戸製鋼所・小森江工場、鈴木商店精米工場などが、また同時期に下関地区にも日本金属・彦島製錬所、彦島坩堝ほか鈴木系の工場が次々と建設され、関門地区に鈴木コンツェルンの一大工場群が建設されていった。