鈴木商店の製粉事業への進出③
鈴木商店系列の大里製粉所・札幌製粉と日本製粉が合併
大正8(1919)年10月、日本製粉は元帝国製粉の取締役で同社の監査役を務めていた岩崎清七が社長に就任した。岩崎が日本製粉の社長に就任した当時は第一次世界大戦終結後の反動不況が本格化する時期に当たり、製粉各社とも過剰設備を抱えて業績は悪化の一途をたどるという多難な時期であった。
岩崎は日本製粉の経営を引き受けるに際し同社の筆頭株主となったが、その株式の大半を家業の米穀取引で関係があった鈴木商店東京支店長の窪田駒吉に譲渡した。これにより、以後日本製粉は鈴木商店との関係が緊密化していくことになる。
岩崎率いる日本製粉は大型合併による競争力の強化を強く志向し、「東洋製粉」(製粉能力2,500バーレル)「大里製粉所」(製粉能力1,200バーレル)「札幌製粉」(製粉能力300バーレル)との合併を企図した。
岩崎は当時優秀な新進会社であった東洋製粉から合併について承諾を得ると、続いて鈴木商店の窪田駒吉を介して、いずれも鈴木商店系列の「大里製粉所」および「札幌製粉」との合併を目指した。
岩崎が大里製粉所との合併を決意したのは、同社が創業以来相当の成績をあげてきたこと、アメリカ・ノーダイク社製の最新鋭機をはじめ設備が完備しており、鉄道の便、築港の関係も申し分がなく、他に得難い工場であったことが最大の理由であったが、同時に同社では米田龍平という当時としてはまれに見る国際経験豊かな工場責任者が指導に当たっており、「赤ダイヤ」「緑ダイヤ」などの優れた製品を産み出していたことも理由の一つであった。
大正4(1915)年4月、大里製粉所は静電気ショートに起因する大火災に見舞われ、工場と倉庫が全焼するという不運に見舞われるが、復旧工事を急ぎ翌大正5(1916)年には操業を再開した。操業再開後の大里製粉所は米田の指導の下でマカロニ製造工場を建設し、当時としては非常に珍しい国産マカロニ(大正5年、「DIAMOND MACARONI」[ダイヤモンドマカロニー]の商標権を取得)を売出すなど加工分野も手がけるなど積極的な経営が行われていた。
一方、札幌製粉は前記のとおり官営札幌製粉場の後身で、かつて米田龍平が在籍し、明治42(1909)年に鈴木商店に買収された後も「赤星」「白星」ブランドで名声を博していた。
大正9(1920)年3月1日、東洋製粉および大里製粉所と日本製粉の対等合併が実現した。なお、大里製粉所と日本製粉の合併は、一旦大里製粉所と札幌製粉が合併した後に日本製粉がこれを吸収する形がとられた。
この大里製粉所・札幌製粉と日本製粉の合併により、鈴木商店は日本製粉向けの原料供給と製品の一手販売権を手中に収めることとなった。なお、この一連の合併を経て、鈴木商店からは谷治之助、窪田駒吉、志水寅次郎の3名が日本製粉の取締役に就任した。