鈴木商店の製粉事業への進出④

鈴木商店の経営破綻と日本製粉の経営再建

大正9(1920)年3月に系列の大里製粉所・札幌製粉と日本製粉の合併が実現して以降、日本製粉への経営関与を深めつつあった鈴木商店であったが、大正10(1921)年11月にワシントン軍縮会議が開催され、翌大正11(1922)年2月に海軍軍備制限条約が成立した結果、わが国は「八八艦隊」建造という海軍大拡張計画に伴う巨額の軍需が消滅したため第一次世界大戦後の反動不況は一段と深刻化し、この軍需に起死回生の期待をかけ急激な業績悪化に歯止めをかけようと目論んでいた金子直吉率いる同社も大きな打撃を受けた。

さらに、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災は関東一円に未曾有の被害をもたらしたが、鈴木商店もこの大震災により巨額の損失を被り、同社の経営状態はいよいよ悪化の一途をたどることとなった。

日本製粉は外麦の輸入港に近い横浜に鈴木商店系列の浪華倉庫の所有地を購入し大正13(1924)年5月、外麦専用のわが国初の本格的大規模臨海工場を竣工した。さらに、北海道の小麦需要の増加に対処するため、小樽市外高島町(現・小樽市高島)の浪華倉庫の所有地を購入し大正14(1925)年9月、臨海の小樽工場を竣工した。現在も、同工場で生産される小麦粉には札幌製粉時代のブランド「赤星」「白星」に由来する「青星」「北赤星」のブランドが残されている。

大正14(1925)年7月1日、さらに日本製粉は東亜製粉(製粉能力3,300バーレル)を合併する。東亜製粉は明治39(1906)年に設立され鈴木商店とも密接な取引関係にあったが、やはり第一次世界大戦後の反動不況により大幅な赤字を余儀なくされていたものである。これにより、日本製粉の製粉能力は一層大きなものとなった。

しかし、一方では当時の日本製粉は製粉市況の慢性的な低迷、巨額の銀行借入と手形の発行による利子負担の増大、資金繰りの悪化により鈴木商店と同様に深刻な経営難に陥っていた。

鈴木商店と日本製粉は大正9(1920)年に大里製粉所・札幌製粉と日本製粉が合併して以来一層緊密な取引関係になっていたことから、両社は苦境を切り抜けるため資金融通のため相互に原料・製品の取引額を超えた手形を書き合うようになり、これら融通手形の金額も巨額に膨れ上がっていた。

この危機的な局面を打開するため、金子直吉は岩崎清七と協議の上業界1位の日本製粉と2位の日清製粉の合併を提唱して交渉を開始し、大正15(1926)年10月には仮契約書の締結にまでこぎ着けた。しかし、この合併は土壇場で日清側からの合併拒絶により一転して不調に終わった。

この結果を受け、同年年末の資金繰りにも窮していた鈴木商店と日本製粉は、急遽金子直吉と岩崎清七が政府・日銀に支援を求めた結果、台湾銀行を通じて両社への救済融資が実行され、急場を凌ぐことができた。しかし、一連の金融支援の過程において、それまで世間に知られることがなかった鈴木商店の経営悪化が明るみとなり、このことが同社の信用に大きな影を落とし、同社の経営状態を一挙に悪化させることとなった。

昭和2(1927)年1月、日清製粉との合併不調と経営悪化の責任を取り、岩崎は日本製粉の社長を辞任し、代わって同社の取締役であった鈴木商店東京支店長・窪田駒吉が社長に就任し、台湾銀行(*)の監視下で減増資(増資分の大半を鈴木商店が引受ける)による資本整理を実施した。

(*)鈴木商店の主力銀行である台湾銀行は、大正12(1923)年頃から鈴木商店に対し、それまでの監督的・間接的介入から直接的管理へと方針を転換し、同社の組織・経営改革に乗り出していた。

しかし、昭和2(1927)年4月2日、鈴木商店は金融恐慌に巻込まれる中で台湾銀行から融資打切りの最後通告を受け、経営破綻を余儀なくされた。以後、日本製粉はかねて緊密な取引関係にあった三井物産から強力な支援を受けることとなり、経営再建への歩みを踏み出した。

  • 神戸市海岸通の鈴木商店本店(大正9年~昭和2年)
  • 金子直吉
  • 窪田駒吉

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