樟脳を求めて台湾進出、後藤新平との出会い
鈴木商店大躍進の第一歩となる台湾樟脳油販売権
洋糖引取商として順調に発展していた鈴木商店は、樟脳についても新たに日本の統治下となった台湾の樟脳に関心を寄せ、情報入手を始めた。台湾では樟樹からは樟脳のみを採取し、油は廃棄していることを知り、「樟脳油に勝算あり」と着目した。
当時、樟脳は医薬、防虫、防臭、防腐剤からセルロイドの原料や火薬原料まで幅広く利用され、樟脳の可能性に注目していた金子直吉は、明治28(1895)年、再製樟脳業者の小松楠彌と組み「小松組」を組織して台湾視察団を派遣した。これが鈴木商店の台湾での事業の第一歩となった。
当初、台湾での樟脳および樟脳油の買い取りは「小松組」名義で行い、鈴木商店の名が表に出ることはなかったが、樟脳の価格急騰があり、金子は台湾への直接進出計画を打ち出す。
折しも明治31(1898)年、第4代台湾総督に児玉源太郎が、民政局長(後に初代民政長官)に後藤新平が着任。後藤は、阿片、塩、樟脳の三大専売制度を導入して台湾の財政自立を図ろうとした。
金子は、かねてより後藤新平と知遇のあった後藤回漕店の後藤勝造を介して後藤新平に接近した。そして後藤の樟脳専売制度を支持、反対陣営を切り崩し、同制度の実現に尽力した。
この功績を評価された鈴木商店は、樟脳油の大半の販売権を獲得し、神戸における直営樟脳製造所をはじめ、薄荷、製糖等生産事業へ乗り出す第一歩となった。こうして始まった台湾産樟脳油の取扱いから樟脳事業への本格進出が、その後の鈴木商店大躍進の最初の契機となった。
またこれを機に鈴木商店は、製脳、製糖、製塩等々の事業を台湾で展開することになるほか、後藤新平を介して台湾銀行との繋がりが生まれた。金子と後藤の信頼関係がいよいよ強まる。