B.「小松組」の事業展開と二代目岩治郎の製脳事業
小松組と鈴木単独事業が合流し、台湾製脳(合)設立するも・・・
台湾進出当時の大稲埕の盛況ぶりを金子直吉は次のように回想している。
"実に危険極まりなき蕃地に踏み込んで樟脳の他に生油採取の利益を説明して廻った者は多くは小松組の人々であった。故に犠牲も小松組の方に多かった。而して小松組を始め樟脳商は何れも大稲埕の建昌街にて看板を掲げ、樟脳と生油の買入を行ったものであるが、台湾人の利の鋭いのには真に驚嘆の外なしである。即ち日本人が山間に入り込み製脳者に対しては樟脳の外に油採取の利益を説明し、其油が取れたならば建昌街へ送れ、然るときには樟脳値段の約半額で買い入れる旨宣伝に努めた処、半年も経たぬ間に建昌街は忽ち樟脳油の大市場となって、商家にも倉庫にも溢れる程集まった。此油は皆内地の樟脳商が買い入れて神戸へ送り、同地で再製して海外に輸出せられ当時の貿易を賑わしたものであった。"
さらに「小松組」は山地に分け入り、自ら製脳業を手がけている。最初は明治32(1899)年、桃園庁下および新竹庁下の製脳地に許可を受け、製脳を開始した。一方、二代目鈴木岩治郎は明治34(1901)年に宜蘭庁下の官業製脳所の経営を請け負うと、これを拠点として周辺の製脳地での製脳許可を得た。翌35(1902)年には小松楠彌が「蕃害」(原住民による襲撃)で製脳不能となった桃園・新竹を引き払い、宜蘭に合流して製脳許可地を拡大した。翌36(1903)年にはこれに波江野吉太郎(金子ら神戸の樟脳関係者に台湾樟脳の情報を最初にもたらし人物)も加わって、「小松組」の小松・鈴木、そして波江野らが一体となって「台湾製脳合名会社」を設立した。明治30~40年代、この会社が製造した樟脳及び樟脳油は、台湾全体の製造高の10%~20%を推移し内地資本をリードしたが、大正8(1919)年の製脳合同により「台湾製脳株式会社」に吸収された。