C.後藤新平との出会いと樟脳油販売権の獲得
民政長官・後藤新平の進める樟脳専売制度に協力し、樟脳事業の道を拓く
明治31(1898)年3月、児玉源太郎が第4代総督となり、民政局長(のち民政長官)には後藤新平が着任した。当時の台湾財政は政府補助でまかなわれており、本国財政の重い負担となっていた。財政自立を実現するため、後藤が、その切り札としたのが阿片、塩、樟脳の三大専売制度の導入であり、収益の規模から最も期待がかけられたのが樟脳であった。
世界の需要量の8~9割をまかなう台湾樟脳の商権は、領台以前からイギリスやドイツなどの外商に握られていた。樟脳は投機による価格の変動が激しく、台湾では製脳方法が未熟なため、樟樹の乱伐も著しかった。これらを改善し、樟脳からの収益を台湾財政に組み入れるには、樟脳を専売制にすることが必要であった。しかし、既得権益の喪失を恐れた樟脳業者らが猛烈に反発したため、後藤は苦境に立たされていた。
これに対し、同業者に過当競争の非理を説いて回り、業者の立場から樟脳専売を推進したのが金子直吉であった。金子は台湾に赴任したばかりの後藤に面会し、「製脳事業直営は結構です。わしは長官の意見に賛成です」と言明し、その後、専売当局の祝辰巳と協力して反対陣営を切り崩した。そして翌32(1899)年6月、「台湾樟脳及び樟脳油専売規則」の発令に至るのである。
金子は、競争相手が多い樟脳よりも、樟脳油の一手販売権を握ったほうが得策と計算した。その狙い通り、専売制施行後には、樟脳油を重要産物化した功績が評価され、鈴木商店が樟脳油の65%の販売権を獲得するという破格の成果を得た。ちなみに残り35%の販売権はライバルの糖商増田・安部らが共同設立した台湾貿易会社が獲得、また樟脳の一手販売権はイギリスのサミユル商会が獲得した。