洋糖・居留地貿易時代
鈴木商店を生んだ神戸港
鈴木商店は、明治7(1874)年に、鈴木岩治郎が大阪の有力な輸入砂糖商・辰巳屋ののれんを譲り受けて、「カネ辰鈴木商店」として神戸・弁天浜に創業。外国産砂糖の輸入商「洋糖引取商」としてスタートした。
辰巳屋・鈴木商店が創業した明治初期の神戸では、居留地貿易の全盛期であった。神戸港は、慶応3(1867)年に開港され、政府は、日本人商人との貿易は居留地に限定するという「居留地貿易」を義務づけた。鈴木商店の洋糖ビジネスは、居留地の外国商館が輸入した砂糖を日本国内で引取って、日本国内で販売するという取引形態であった。
金子直吉が明治19(1886)年に入社すると、外国商館に出入りするようになる。しかし、当時の日本は関税自主権もなく、限られた外国商館との一方的な取引条件を飲まされ、当時の金子は、「犬のように追い回された」、「商品を計る時に、外人は秤台の上に足をのせ、ニヤリと笑ったものだ」と外国人の態度に憤慨したという。この時の経験が、金子が国益志向を持つようになったきっかけともされる。
また外国商館との取引からその商品価値を認識した樟脳、薄荷の取扱いを始めたことは、その後の鈴木商店飛躍の礎となった。輸入中心に栄えた神戸港は、外国の文化・技術・知識が最も早く流入し、若き金子の好奇心を掻き立てた。
また石油の重要性に着目して、明治15(1882)年には神戸石油商会を共同で設立。これは初めての輸入石油の共同事業であり、共同石油タンクを設置する革新的な試みであった。
創業時の外国商館との取引中心から徐々に独自の取引を拡げた鈴木商店は、明治中期には神戸有力8大貿易商の一つにまで発展する。鈴木岩治郎は、神戸貿易会所副頭取等に就任し、神戸財界に華々しく登場した最中、明治27(1894)年に、病に倒れ52歳で急逝してしまう。
*神戸8大貿易商:光村弥兵衛、池田清助、池田貫兵衛、山本亀太郎、高木嘉右衛門、山口吉左衛門、大慈安兵衛,鈴木岩治郎
(桂芳男著「総合商社の源流 鈴木商店」)