町田叡光

創業時から閉山までの30年間、一貫して羽幌炭砿の発展に尽力した信念の人

町田叡光

生年 明治36(1903) 年10月28日
没年 平成7(1995)年2月8日

町田叡光(えいみつ)は高知県安藝郡伊尾木村(現・安芸市)に二男一女の長男として出生。父・亀次郎は宮大工の棟梁。母・花は大農家、一圓(いちえん)家の娘。実姉の常意は羽幌炭砿創業時の専務取締役・金子三次郎の後妻である。

大正7(1918)年、尋常高等小学校から陸軍幼年学校への進学準備をしていたところ、金子直吉に薦められ高知商業に入学。(*) 学校へは直吉の実弟・楠馬の家から通った。当時楠馬家には直吉の母・民も同居していたという。

(*)金子直吉は高知商業の創設者にして初代校長の横山又吉と親しい関係にあったことから、同校の優秀な卒業生を次々に鈴木商店に入店させた。彼らはその後、鈴木商店において「土佐派」と呼ばれる一大勢力となる。

その後、神戸高商に入学。高商時代には鈴木商店の系列企業「日沙商会」の社長・近藤正太郎の私塾「近藤塾」(兵庫県芦屋)に入塾。そこから高商に通うとともに、岩井商店(現・双日)の創業者、岩井勝次郎が自らの別荘を改築・設立した禅道場「傳芳庵」(神戸市御影町)でも修行していた。またこの頃、須磨の金子直吉邸にも出入りし、直吉の妻・徳、三男・猪一らとも交流を深めていた。大正15(1926)年、東京商科大学(一橋大学の前身)に入学。

昭和4(1929)年、金子直吉の薦めで神戸製鋼所に入社。神戸本社、大阪鋼管工場、門司工場、名古屋工場、長府工場などで労務の責任者や工場立上げの責任者としてその職責を全う。昭和14(1939)年秋、同社での実績が高く評価され、金子直吉、髙畑誠一、金子三次郎らから北海道における炭鉱創業への従事を強く求められ、渡道の決意を固める。

昭和15(1940)年1月、36歳のときに太陽産業羽幌鉱業所支配人として着任。その後、羽幌炭砿専務取締役を経て昭和31年(1956)年5月、初代社長・岡新六の後を受け第二代社長に就任。

支配人、専務取締役時代には、岡新六社長とともに困難を極めた鉄道敷設、戦時中の人出・資材不足、自由売炭時代の到来に伴う販売競争激化、戦後の人出不足・労働意欲の低下に伴う出炭量の激減、その後頻発した労働争議、朝鮮特需の反動による販売不振などの幾多の苦境を次々に克服して行った。

昭和25(1950)年の労働争議終結後は愛山精神の醸成にも心を砕き、労使一体となった企業経営を確立した。戦後は業界での競争に勝ち抜くため、徹底した合理化と技術革新によりコストダウンをはかるとともに出炭量の増加に邁進して行った。

石炭業界の将来を見通す先見性・計画性・積極性・創意発案の才と不屈の経営精神をもって、昭和15年(1940)の創業時から昭和45(1970)年の閉山までのおよそ30年間、一貫して羽幌炭砿の発展に力を尽くした、まさに信念の人であった。

昭和37(1962)年11月15日、朔北の山中に僅か20年余りで年産100万トンを超える炭鉱を築き上げ、また戦後における北海道の石炭産業発展・育成に尽くした功績大として、藍綬褒章を受章した。

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