金子三次郎

炭鉱事業を中心に鈴木商店傘下の企業の発展に尽力

金子三次郎

生年 明治26(1893) 年11月17日
没年 昭和47(1972)年1月25日 

大阪市東区神崎町に父・淺野萬吉、母・キヌの四男として出生。

父親が長年、鳶職の棟梁として藤田助七が経営するカネ辰藤田商店(*)の建物の普請に従事していた関係から明治38(1905)年8月、11歳のとき高等小学校を中退し“ボンさん” (見習の小僧)として藤田商店に奉公に入る。

(*)カネ辰鈴木商店と同じく辰巳屋(主人・松原恒七) から暖簾分けを受けた大阪の砂糖商。カネ辰藤田商店とカネ辰鈴木商店(両辰巳屋)は同族的な連繋を強め、鈴木商店発展の原動力ともなった。

翌明治39(1906)年夏、藤田助七の紹介で鈴木商店名古屋出張所に“ボンさん”として入り、大里製糖所製造の砂糖販売に従事。明治42(1909)年、鈴木商店門司支店に異動。大里製粉所設立直後の明治45(1912)年、18歳のとき同社原料倉庫担当となる。

大正4(1915)年、同社工場大火災に遭遇したためすでに決定していた鈴木商店香港支店への異動を辞退し、火災の事後処理に奔走した後大正12(1923)年頃、鈴木商店下関支店(支店長・西岡貞太郎)に新設された石炭部に異動。以後、主に石炭・炭鉱などエネルギー資源分野の事業に従事することになる。

大正7(1918)年、帝国炭業若松出張所長。大正10(1921)年、帝国炭業本社販売課長。大正14(1925)年、苦境に陥っていた沖見初炭鉱に専務取締役として赴任し、同炭鉱の立て直しおよび事業の整理に従事する。

大正8(1919)年春、藤田助七、柳田富士松、西岡貞太郎らのすすめにより金子直吉の実弟・楠馬の婿養子となる。妻は楠馬の長女・亀尾。

鈴木商店破綻(昭和2年4月)後の昭和5(1930)年頃、辻湊らと石炭液化事業の研究に従事し、研究用原料炭の調達を担当。横浜・磯子に建設したパイロットプラントにより北海道羽幌の石炭をはじめ全国の石炭のテストを実施する。このことがその後の羽幌炭砿の設立につながって行く。       

昭和14(1939)年秋、後に羽幌炭砿の第二代社長となる町田叡光は神戸製鋼所での実績が高く評価され、北海道における炭鉱創業への従事を強く求められ渡道の決意を固めるのであるが、それを町田にすすめた人物が金子直吉、高畑誠一、三次郎の3名であった。なお、三次郎は妻・亀尾が33歳で早世し、昭和8(1933)年10月11日に再婚。後妻は町田叡光の実姉・常意である。

羽幌炭砿創業時(昭和15年築別炭砿開坑)、三次郎は専務取締役であった。創業前には鉄道敷設の認可申請等開発の諸手続や鉄道建設資材の調達などに奔走し、実現はしなかったものの、当時、太陽産業の直営会社であった防石鉄道(本社・山口県防府市)の「三田尻―堀」間17km余の軌条を羽幌炭砿に移設すべく、時の鉄道省と交渉を重ねたがことなどで知られている。この時の交渉相手が、当時同省監督局の鉄道課長で、後に総理大臣となる佐藤栄作であった。

羽幌炭砿創立20周年に当たり当時の会長・髙畑誠一から寄せられた一文の中で、辻湊(炭砿の設立準備委員長) 、岡新六(初代社長)、古賀六郎(常務取締役、初代鉱業所長)らと並んで三次郎に対しても、創業当時の努力について謝意が表されている。 

三次郎は金子直吉が昭和14年(1939)年4月に設立したツンドラ製品(保温板、絶縁板、防音板、糖結剤、豆炭など)の製造販売を目的とした樺太ツンドラ工業(社長:竹田儀一)にも専務取締役として名を連ねている。

三次郎は金子直吉の信頼が厚く、鈴木商店破綻後もその手となり、足となって新会社の設立などに従事した。「金子直吉遺芳集」(編輯人 柳田義一)には、金子直吉から三次郎に宛てた毛筆による書簡が60通掲載されており、その内容からも二人の関係の深さを窺うことができる。

晩年は、鈴木ゆかりの東邦金属の監査役として最後の務めを果たした。「柳田富士松傳」(白石友治 編輯)によれば、三次郎は事業経営の面でも立派な手腕家であったという。

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