朝比奈敬三
卓越した技術力をもって、道北の羽幌炭砿を中小炭鉱の雄に導く
生年 明治30(1897)年9月2日
没年 不詳
彦根市にて出生。京都帝国大学採鉱冶金科卒業、南満州鉄道撫順炭鉱採炭所長、同計画部長、同保安部長、北支那龍煙鉄鋼理事、南満州鉄道参与。終戦後、羽幌炭砿に入社し、鉱業所長、取締役採炭部長、常務取締役生産部長(築別、羽幌の両鉱業所の生産面を統括)、専務取締役。
終戦からしばらくの間は社会全般が混乱に陥り、石炭業界も人出不足・労働意欲の低下による出炭量の減少が顕著であり、羽幌炭砿も決して例外ではなかった。当時、荒れた坑内外を整備しながら明日の飛躍に向けて新たな一歩を踏み出すには、先進的な技術力と新たな労働意識に対応できる最新の労務対策が必要不可欠であった。
そんな中、昭和22(1947)年に年産800万トンを誇る満州の撫順炭鉱で採炭の第一線に立ち、最先端技術を有する朝比奈敬三がその配下であった優れた技術人とともに迎えられ、鉱業所長として陣頭に立つこととなった。あわせて、北満州の蜜山炭鉱で多くの現地人労働者の労務管理に従事した濱田竹美(後の取締役総務部長)ら労務のベテランも迎えられた。この時点で、年産100万トンの実現という夢に向かう生産体制が確立したと言ってよいだろう。
その後頻発した労働争議も終結し、羽幌炭砿は本格的な合理化と技術革新によりコストダウンをはかるとともに出炭量の増加に邁進して行った。昭和28(1953)年10月、築別炭砿の出炭用の一大幹線とも言える運搬坑道「大竪入」(おおたていれ)が貫通。さらに、これを軸とした坑内外施設の機械化などの合理化を推進。これを機に築別炭砿は近代的な炭鉱へと生まれ変わり、出炭量も飛躍的な伸びを示した。朝比奈敬三以下の技術陣はその後もその真価を発揮し続けることになる。昭和34(1959)年には、羽幌砿業所(羽幌本坑と上羽幌坑を統括)を中心とする合理化5カ年計画が策定され実行に移された。これを象徴する施設が、羽幌本坑の運搬立坑(昭和40年6月完工) と選炭工場・貯炭場(昭和38年夏頃完工)である。
昭和35(1960)年4月19日、朝比奈は日本鉱山技術界における最高の栄誉である「渡辺賞」を受賞した。日本鉱業会において審査対象となったのは、その名も「築別炭砿の合理化」と題する論文と築別炭砿における合理化の実績そのものであった。
昭和38(1963)年10月26日には保安技術の改善、保安対策の研究、保安行政の発展に務め、災害を減少させるなど長年石炭鉱山の保安確保に残した功績大として、藍綬褒章を受章した。実際、ひと頃自然発火の頻発により出炭量が減少していた築別炭砿も、昭和37(1962)年度には災害発生率が全道平均の4分の1以下に減少している。
何よりも、切れ目のない合理化と技術革新によりコストダウンと飛躍的な出炭量の増加を実現し、羽幌炭砿を中小炭鉱の雄に導いた功績は極めて大きい。