嶋内義治

強烈な責任感と真正面から仕事に向き合う姿勢をもって羽幌炭砿の復興と発展に尽力

嶋内義治

生年 明治37(1904)年4月15日
没年 昭和50(1975)年10月26日

高知県の東端、室戸岬に近い漁村の室戸町に米殻商の父・嶋内徳弥太、母・勝芳の四男として出生。

大正8(1919)年3月、14歳のとき室戸尋常高等小学校高等科二年修業後に退学し鈴木商店函館支店に勤務していた親族に伴われ同支店塩業部に入社。その後直ぐに大日本塩業函館支店勤務となる。大正9(1920)年9月、大日本塩業函館支店閉鎖に伴い鈴木商店函館支店に異動し、継承した大日本塩業の事務を担当。

鈴木商店経営破綻直後の昭和2(1927)年8月、鈴木商店小樽支店の業務を継承する大成商事(社長:松川嘉太郎)が設立されると同社に入社し、引続き塩業の仕事に従事した。

昭和13(1938)年3月、大日本塩業が経営参画する南樺太塩業(本社:大泊町栄町東二条)が設立されると、大成商事を退社し取締役支配人として大泊に赴任した。

昭和16(1941)年、樺太で塩専売制が実施され南樺太塩業が塩元売捌人に指定されると、塩業のほか水産加工、ウイスキー醸造、水飴販売をはじめ種々商売の手を拡げ、青年実業家として持前の才覚を発揮し成功をおさめるとともに、樺太食用油卸商組合長、樺太飴移入卸商組合長、大泊塩小売人組合顧問、大泊信用組合監事、大泊実業青壮年実践会会長、主要物資調査委員(樺太庁)、大泊国民奉公会・町常任委員、樺太島産缶詰共販組合理事長、大泊運動協会評議員など島内の要職を歴任し、島の名士と称されるまでになった。

しかし、嶋内は本土でのさらなる飛躍の場を求めて昭和18(1943)年1月に小樽に帰着すると翌2月、経理担当責任者を求めていた羽幌炭砿鉄道に入社し経理部長に就任する。当時は戦時経済体制の下、石炭の増産が政府の至上命令であったが、軍の召集による労働力の減少、電力不足と採炭機械・生産に必要な資材の絶対的な不足から出炭量は低迷を続け、戦争の行方が不透明な中、羽幌炭砿にとって最初の大試練とも言うべき苦難の時期であった。

嶋内は昭和21(1946)年に労務部長を兼務すると、翌昭和22(1947)年に常務取締役に就任。同年、羽幌町会議員にトップ当選する。その後、築別鉱業所長、羽幌鉱業所長を経て札幌出張所在勤の常務取締役経理部長。昭和26(1951)年、常務取締役営業部長。

その間、終戦と同時に発生した朝鮮人労働者の蜂起、先鋭化した労働組合(昭和25年には無期限ストが発生)との対峙など幾多の困難に正面から取り組むとともに、職員や鉱員を叱咤激励する役割を一手に引き受ける。

強烈な責任感と真正面から仕事に向き合う姿勢は羽幌炭砿においても変ることはなく、晩年には自らを「南岬」と号したように南国生まれの陽気さ、天性のバイタリティー、誰からも慈父のように慕われる清濁あわせ呑む器量の大きさに加えて生来の緻密さを遺憾なく発揮し、戦中戦後の混乱期に荒廃した炭鉱の復興と発展に尽力した功績は極めて大きい。

昭和30(1955)年、東京常勤常務取締役。昭和35(1960)年、羽幌炭砿の子会社・大五商事設立に伴い同社社長を兼務。昭和40(1965)年、羽幌炭砿鉄道の常務取締役を退任すると昭和44(1969)年、辰巳会東京支部の幹事に就任し名幹事として精力的に活動を推進した。

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