三輪徳太郎
「神戸へ出て一旗あげる」ことを夢みて、35歳で三輪組を創業
生年 安政元(1854)年11月20日
没年 大正14(1925)年3月23日
三輪組の創始者・三輪徳太郎は、安政元(1854)年11月20日、兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(現在は姫路市仁豊野)の農家に、4人兄弟の次男として生まれた。父は惣右衛門、母はトク。
徳太郎の生まれた前年、嘉永6(1853)年6月には、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが遣日国使として軍艦4隻を率いて浦賀に来航、日本に開国を迫ってきた。翌年、徳太郎の生まれた安政元年には、幕府とペリーの間で日米和親条約が締結され、下田・函館の2港を開港した。さらに、日英和親条約も調印され、長埼、函館を開港、ついでオランダにも下田・函館を開港している。
徳太郎誕生の時代は、日本が開国し、急速に近代化への道を歩む、まさに胎動の時代であったといえる。こうした時代背景が、徳太郎を貿易港神戸へと結びつけ、その後の日本近代化の象徴である鉄鋼産業の荷役・運搬を生涯の事業とする決意を促がしたといえよう。なお、明治維新(元年)を迎えたのは、徳太郎が数え年14歳の時であった。
姫路市は、広大な播磨平野の中央部に位置し、現在の播磨工業地帯の中枢として注目されている都市である。そして古くから山陰、山陽をつなぐ重要拠点として栄え、中世には城下町として、また明洽以降の富国強兵の時代には軍事基地、商業都市として繁栄してきた。戦後、昭和21年3月には近隣1市3町3村を合併し、新姫路市が誕生し、全国五大工業地帯のひとつとして、また兵庫県を代表する大都市として発展してきた。
姫路市の北、中国山脈に生野鉱山があって、昔は金、銀、銅が採掘されていた。鉱山の麗の石黒岩から成り立つ渓谷をぬって市川が流れ、飾磨港に注いでいる。その昔、市川の清流には鮎の姿も見られ、両岸は風光明媚、四季を通じて美しく、とくに朝夕の美しさは墨絵を思わせるような大自然の山村であった。
徳太郎の生まれた仁豊野の集落は、この大自然の一角にあって、生野鉱山の盛業時には、そこに往来する人々も多く、途中の休憩場としてもよく利用され、商業も発達した。徳太郎の幼少のころは、まだ現在のような学校制度はなかったから、おそらく村の長老や寺子屋などで“読み書きそろばん”を習ったのではなかろうか。
幼少年時代は、小川で魚を獲り、あるいは山野に小鳥を追う日々をおくっていた。そのころから腕っ節も強く、親分肌の気性をもっており、家業の農業は兄が引き継ぐので自分は必ず「神戸へ出て一旗あげる」ことを夢みていた。
徳太郎は「一旗あげる」ことを心に秘めて、生まれ育った仁豊野をあとに、勇躍神戸へやってきた。神戸は諸外国との貿易港として、外国人居留地もあり外国船舶の出入り、外国商館のしゃれた建物が点在する新興都市であった。
生来、任侠肌で、体を張っての荒仕事が男の生き甲斐だと考えていた徳太郎は、神戸の港湾荷役を業とする上組浜仲(現・株式会杜上組の前身)へ就職した。上組浜仲での当時の仕事は、居留地を中心に、高浜、弁天浜、国産波止場で、はしけや帆船によって輸送される貨物の水揚げや積み込み、配達、倉入れなどをする労務の請負であった。作業はすべて人力でおこなわれていた。水揚げは肩で担ぎ、運搬は大八車で肩引き、手押しという状態であった。
徳太郎は持ち前の体力と度胸に加え、仕事の要領もよく人よりも覚えが早く、たちまち港湾荷役の人夫頭となって多くの人夫を使うようになった。こうして徳太郎は、いよいよ念願の独立を果たすため、明治21年3月、35歳のとき上組を退社して、三輪組(現・三輪運輸工業株式会社の前身)を創業した。