後藤新平
大風呂敷と揶揄されるほどスケールの大きい政治家
生年 安政4(1857)年
没年 昭和4(1929)年
後藤新平は、陸奥国胆沢郡(現・岩手県奥州市水沢区)に仙台藩・留守家(るす家)家臣の下級武士後藤実崇(さねたか)の子として生まれた。当初、医学校を出て医師となり愛知県医学校では学校長兼病院長として実績を残した後、内務省衛生局入りしたことが政治家へ転じる契機となった。
陸軍次官の児玉源太郎に請われ、台湾総督となる児玉の下で、民政長官(明治29(1896)年~明治33(1900)年)となり、台湾統治に功績を挙げる。その後、満鉄設立の責任者となった児玉から再度要請を受け、明治39(1906)年初代の満鉄総裁に就任、日本の大陸進出を支えた。
さらに鉄道員総裁として国内の鉄道を整備した後、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の大胆な復興計画を立案。晩年は永く拓殖大学の学長を務めたほか、東京市長として都市計画の普及啓発に注力、ボーイスカウト日本連盟初代総長を務めた。
<鈴木商店との関係>
金子直吉と後藤新平との出会いは、後藤が台湾総督府民政長官に赴任して以来で、後藤回漕店・後藤勝造の引き合わせによると言われる。台湾統治の財政の要として後藤は、台湾産樟脳の専売制度の実施を目指したが、製造業者の猛反対に遭って苦戦。金子直吉は後藤の政策を強く支持し、官営実施に積極的に協力した結果、台湾樟脳および樟脳油の専売規則が制定された。
これを機に金子と後藤の信頼関係が深まり、鈴木商店は台湾産樟脳油の商権を得て、その発展の足掛かりに繋がったばかりか鈴木商店の経営多角化に欠かせない台湾銀行との関係も後藤の口添えにより確立した。