辻 湊
金子直吉の信任厚く、播磨・鳥羽両造船所の経営に手腕発揮
生年 明治9(1876)年11月1日
没年 昭和33(1958)年5月20日
佐賀県生まれ。明治37(1904)年京都帝国大学工科大学機械学科を卒業後、㈱石川島造船所に技師として入社。明治41(1908)年に鈴木商店傘下神戸製鋼所の技師長に。明治43(1910)年鈴木商店が台湾で北港製糖㈱(現・大日本明治製糖)を創立し取締役技師長就任。大正元年に宜蘭殖産㈱常務取締役、大正5(1916)年には鈴木商店造船部長として播磨造船所の経営及び鳥羽造船所の買収とその後の経営に従事。大正6(1917)年、船舶用や小型の電機品の必要性、将来性に着目し鳥羽の地で電機事業に着手する。
大正10(1921)年鳥羽、播磨両造船所の経営を神戸製鋼所に移管し神戸製鋼所取締役に就任。また、国内で深刻な鉄不足が叫ばれる中、日米船鉄交換交渉を解決し一躍時の人となる金子直吉を助けた。
大正13(1924)年クロード式窒素工業会社並びに第一窒素工業会社(共に現・下関三井化学)を設立し専務取締役に就任。大正14(1925)年には日本放送協会(NHK)の設立にも監事として奔走している。
鈴木商店倒産後も昭和6(1931)年には日本食糧㈱を設立、又、北海道に羽幌炭鉱鉄道の設立準備委員長に就任し、創設に貢献した。国内初の石炭液化を計画したのもこの頃。さらに昭和14(1939)年には㈱満州石炭液化研究所を設立し社長に就任した。
辻湊は鈴木商店金子直吉の信任が厚く、その尖兵として活躍する一方、造船、電機、化学、石炭燃料、製糖、食品、放送事業など多岐にわたる産業界で、常に新しい挑戦を続け、事業家として我が国産業の発展に大きく貢献した。
なお、同時代に活躍した神戸製鋼所初代支配人田宮嘉右衛門は、その自伝の中で「彼は各種の事業に対して理想を以って粉骨砕身、しかも身を持する事、質素恬淡にして、常に新事業に情熱を以ってする事に、人生の総てを捧げた人」と称賛している。