中川小十郎
文部官僚から実業界に転じた後、台湾銀行頭取に就任し鈴木商店の発展を支えた
生年:慶応2(1866)年2月18日
没年:昭和19(1944)年10月7日
中川小十郎は、丹波国南桑田郡(現・京都市亀岡市)の生まれ。明治26(1893)年文部省に入省、文部大臣であった西園寺の秘書を務めたことから終生西園寺と密接な関係を築いた。また教育にも大きな実績を残した。広岡浅子が設立に尽力した日本女子大学の設立では、西園寺が発起人を引き受け、中川も文部官僚として創立事務幹事長として尽力した。また西園寺の私塾「立命館」から発展した立命館大学の前身「京都法政学校」を創立した。(中川は後年、立命館大学の初代総長に就任。)
西園寺が文部大臣を辞任すると中川は、実業界へ転じ、広岡浅子の加島屋に入り加島銀行理事となったほか、朝日生命保険(現・大同生命)副社長として手腕を発揮した後、明治36(1903)年再び官界に復帰。樺太庁書記官を経て大正元(1912)年台湾銀行副頭取に就任した。その後大正9(1920)年に頭取に就任、大正14(1925)年退任するまで13年にわたって台湾銀行の経営に携わった。
台湾銀行における中川の正副頭取在任期間は、奇しくも鈴木商店の飛躍、絶頂期から経営不振の過程と正に重なった。中川の時代に鈴木の発展に伴う旺盛な資金需要に応え、過剰融資とも云われる鈴木への異常な貸付により台湾銀行・鈴木商店は互いに引くに引けない運命共同体となって行った。この間、中川は頭取時代の大正11(1922)年、鈴木の組織改革のため監査役で先輩役員(元副頭取)の下坂藤太郎(後の日商初代社長)を派遣したが、改革の成果が上がらず鈴木は坂道を転げだして行った。
中川と鈴木商店の関係は、中川の樺太書記官時代に遡る。南樺太の領有直後、桂太郎、後藤新平ほかに樺太の開発を依頼された金子直吉は、同島調査に当たり、社員を中川に同行させていたと伝えられている。