奥田良三

鈴木商店本店工事部から独立し、日本工具製作(現・日工)の礎を築く

奥田良三

生年 不詳 
没年 大正9(1920)年1月4日

大正7(1918)年8月12日、神戸市東川崎町(当時)の鈴木商店本店(旧・みかどホテル)は米騒動に端を発する焼き打ちに遭い全焼するが、同社本店工事部は昼夜兼行わずか1週間にして中心となる事務所を、さらに1週間後には約3,000㎡の高級バラックを完成させた。

当時、奥田良三は鈴木商店本店工事部の会計課長であった。また、後に日本工具製作(現・日工)の第三代社長となる矢野松三郎は同部の用度課長であった。この頃鈴木の本店工事部は、同社の積極的な製造業への進出を反映し東奔西走、繁忙を極めており、部長は、後に日本工具製作の第二代社長となる吉本亀三郎、次長は、鈴木の古参社員で金子直吉の信任が厚く、後に日本工具製作の創立委員長となる土屋新兵衛であった。

土屋は新規事業として土農工具(ショベル、スコップ、ツルハシ等)の製造に目をつけ、奥田と矢野の二人を各地に派遣し調査に当たらせた。その結果、工具製造が前途有望であるとの確信を得た土屋は工具製造会社設立の計画書を作成し、吉本に相談する。

鈴木商店の土木工事の総監督でその道の権威でもあった吉本は、土木工事が年々盛んになり工具の不足を実際に体験していたこともあり、新会社の設立に全面的な協力を約束した。

大正8(1919)年6月15日、土屋が創立委員長、発起人代表となり発起人会が開催され、社名は「日本工具製作株式会社」に、本社は神戸市栄町二丁目に置かれた。8月3日、創立総会が開催され、社長は置かず取締役4名の一人に奥田が、監査役4名の一人に辻泰城(後・初代社長)が就任。吉本と土屋は相談役に就任した。

奥田は取締役の互選により代表取締役専務に就任すると、かねてからの希望通り鈴木商店を退職し、吉本と土屋の指導・補佐の下で同社の経営に専念することとなった。8月13日、鈴木商店本店が焼失して丁度1年後に設立登記が完了し、この日が同社の創立記念日となった。

会社創立後に何よりも急がれたのは、新工場の建設であった。奥田は独り工場敷地の選定・買収、建設に席の温まる間もなく全力を傾注した。その結果、敷地は兵庫県明石郡明石町王子(現在の明石市)の約1,000坪に決定したが工場の建設は陸軍特別大演習実施の影響により大幅に遅れ、大正9(1920)年1月にようやくほぼ竣工を見た。

ところが工場竣工の前年12月、奥田は「スペイン風邪」(今でいう「インフルエンザ」。全世界で4,000万人、わが国では38万人が亡くなったともいわれている)に罹ってしまう。病床で工場建設工事の様子を気にかけつつ療養に努めていたが、年を超えて急に病状が悪化し、専務就任わずか5か月後の大正9(1920)年1月4日、工場の落成を見ることなく忽然として亡くなってしまった。

同社初の物故者となった奥田の葬儀は1月8日に神戸市の恵林寺で社葬として行われた。奥田は神戸に出生。弟・喜久司は日支事変において自爆して名を知られた陸軍大佐で、兄弟ともに情熱の人であった。

奥田亡き後、代表取締役専務は鈴木商店出身の当時27歳の矢野松三郎に引き継がれた。大正9(1920)年2月15日、矢野は奥田が心血を注いだ新工場に機械を入れて試運転を行った。待望の生産が始まり、記念すべき第1号のショベルは奥田の霊に捧げるべく遺族に送り届けられた。

同社は矢野が専務時代に専任社長を置くこととなり、初代社長・辻泰城(創立時 監査役)、第二代・吉本亀三郎(創立時 相談役)、第三代・矢野松三郎と引き継がれ、第一次世界大戦終結による反動不況、金融恐慌、戦中戦後の幾多の苦難を乗り越え、昭和43(1968)年2月には「株式会社日工」に社名を変更し、現在はアスファルトプラント、コンクリートプラント等土木用大型プラントのトップメーカーとしてわが国のインフラ整備の最前線を支えている。

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