井上清

日本発条創業のきっかけを作り、副社長として同社の成長に尽力

“ばね”に夢をかける楓、井上、坂本の「市商トリオ」。(日本発条50年記念誌「未来へ弾む」[歴史編]より)

生年 明治32(1899) 年
没年 不詳

高知市南新町(現・桜井町)に出生。大正6(1917)年、高知商業高校(市商)卒業(16回生)後、鈴木商店に入社し鉄材部に配属される。上司には同じ高知商業出身の楓英吉(9回生)(当時、鉄材課長代理)がおり、楓の厳しい指導の下で鉄の商売を覚える。後輩には坂本寿(21回生)がいた。

昭和2(1927)年4月に鈴木商店が破綻すると、井上は大阪で鋼材問屋、井上商店を興し、神戸製鋼所の製品を中心に販売した。専務取締役となった井上は日商(現・双日)とも友好関係を保ち、鉄材を扱うお互いの短所を補い合った。

一方、楓は昭和3(1928)2月に鈴木商店の残党組39人によって設立された日商の鉄材部の責任者を経て取締役に(後・専務取締役)、坂本は楓の紹介により大阪の中小企業、日本亜鉛鍍金(後・日亜製鋼)に経理担当として入社する。

しかし、その後も3人は楓を中心に年2、3回開いていた、旧鈴木商店鉄材部仲間の集まりを通じてコンタクトを欠かさなかった。

その後、井上は自分の経営する伸鉄工場で東京方面からのばね鋼の圧延の注文が増えており、自動車のばねに使用されているとの情報を得る。この情報から自動車用ばねの将来性を嗅ぎ取った井上は昭和12(1937)年夏、坂本を呼び出し、「ばね鋼の注文が関東方面から殺到しているので、その背景と今後の見通しを調べてくれ」と依頼する。

坂本が八方手を尽くして情報を集めてみると、やはり自動車製造事業法の成立(昭和11年施行)以後自動車用ばねの需要が急増しており、自動車の生産が近い将来100万台に達するのも夢ではないことが判明する。楓にも相談すると、全面的に同意を得る。“ばね”の将来性を鋭く見通し、一貫生産へと夢を膨らませた3人はさっそく事業計画を練り、坂本は勤務の合間をぬって買収先として芝浦スプリング製作所という町工場を探し当て、買収工作に着手する。

昭和14(1939)年7月、芝浦スプリング製作所を買収すると8月に楓が初代社長(日商の役員を兼務)に、坂本は総務部長に就任。9月8日には社名を日本発条(略称:NHK)に改称(日本発条創業)し、井上は取締役に就任する。創業時の出資比率は日商50%、井上商店40%、三沢寛祐(三沢商会社長)10%で、従業員はわずか50名ばかりであった。

以後坂本(後・第三代社長)は、楓から新会社への参加を打診され入社を決断した大林組工作所(現・内外テクノス)の労務係長で高知商業出身(24回生)の藤岡清俊(営業部長、後・第四代社長)との“土佐っぽコンビ”で戦中戦後の幾多の困難を乗り越えていく。

一方、日本発条創業のきっかけを作った井上は昭和17(1942)年1月、専務取締役に、昭和19(1944)年5月、副社長に就任し昭和27(1952)年2月まで務める。日本発条創業以後は一貫して坂本、藤岡の後輩二人を全面的に支え、後発組であった同社を世界屈指の“ばね”メーカーへと道筋をつけた功績は極めて大きい。

「高知県人」(昭和31年1月)には次のように記述されている。「井上興業(資本金1,200万円)、井上商事(資本金1,000万円)、関西シャーリング(資本金1,100万円)の3社が井上の直系事業で、傍系の日本発条、関西電気製錬に関係し、尼崎製鉄(神戸製鋼所)の指定問屋も兼ねるなど、関西の金へん市場では隠然たる勢力を誇った。」(「高知経済人列伝」(鍋島高明編)より)

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