辻泰城

日本工具製作(現・日工)の苦難の時代に初代社長として社業発展のため奮闘する

辻泰城

生年 嘉永3(1850)年
没年 昭和5(1930)年7月2日

長崎師範第1回卒業、小学校長、裁判官などをつとめた後、鈴木商店に入る。鈴木商店の大番頭・金子直吉の尖兵として活躍し、造船、電機、化学、石炭燃料、製糖、食品、放送事業など数多くの事業において鈴木商店の発展のみならず、わが国産業の発展に多大な貢献をした辻湊(みなと)は泰城(たいじょう)の甥に当たり、湊は泰城の養子になっている。

大正5(1916)年12月、九州・佐賀~久留米両市間の最短交通機関を設置する目的で、鈴木商店の参画を得て地元有力者が発起人となり肥筑鉄道が設立され、社長には鈴木商店から辻が就任し、下記の土屋新兵衛も取締役に就任している。

また大正7(1918)年、佐賀在住の有力者により佐賀郡巨勢村(現・佐賀市)に設立された「日本電機鉄工(株)」(電気機械、高圧タービンポンプ製造、社長:藤山雷太)に土屋新兵衛と共に取締役に加わっている。

また、鈴木商店は大正7(1918)年6月17日、帝国人造絹糸(現・帝人)を設立し、社長には鈴木岩蔵、専務取締役には佐藤法潤と松島誠、取締役には久村清太と秦逸三が就任し、監査役には辻が西川文蔵、松田茂太郎とともに就任している。 

大正8(1919)年8月13日、鈴木商店本店工事部部長の吉本亀三郎(後・日本工具製作第二代社長)、同部次長の土屋新兵衛(日本工具製作創立委員長)、同部会計課長の奥田良三(後・同社初代専務取締役)、同部用度課長の矢野松三郎(後・同社第二代専務取締役、第三代社長)の4名を中心に、工具(ショベル、スコップ、ツルハシ等)の製造を主業とする日本工具製作が設立された。

当初社長は置かず、奥田が専務取締役として同社の経営に専念した。辻は4名の監査役の一人に就任し、吉本と土屋は相談役として奥田専務を指導・補佐した。

奥田は会社創立後に何よりも急がれた新工場の建設に全力を傾注し大正9(1920)年1月、工場建屋は兵庫県明石郡明石町王子に竣工したが、奥田は前年12月にスペイン風邪(現在で言うインフルエンザ)に罹り専務就任わずか5か月後の大正9(1920)年1月4日、忽然と死去する。

奥田亡き後、専務取締役は鈴木商店出身の当時27歳の矢野松三郎に引き継がれた。同社創業以来、社長を置かず専務に経営を委せて来たのは、吉本、土屋の両相談役が事実上の社長、副社長として専務を補佐して指導に当たる予定だったからである。

ところが、土屋は南朝鮮鉄道の専務として転出し、吉本も病気で相談に乗ることができなかった。結局、独り矢野が会社の運営に全力を傾注したが、若い専務には外部に対する押し出しを欠く恐れもあり、矢野自身の切望もあって専任社長を置くことになった。

社長に推薦されたのは、監査役で最年長者であった辻泰城であった。辻は最初どうしても応じようとしなかったが、吉本と矢野がともに強く要請した結果大正9(1920)年12月14日、辻は取締役に就任すると翌大正10(1921)年4月10日、ようやく初代社長に就任する。

辻は元裁判官という職業柄からであろうか、武士気質の厳格な性格であったという。ただ他の役員たちの辻に対する期待は大きな活躍を望むものではなく、長老として矢野専務の若さを補うという程のものであった。

しかし、辻は社長に就任すると、そんな姑息なことには満足することなく、住友等の鉱山関係会社へ同社の製品を売り込むため四国、九州方面へ頻繁に出張し販路拡大に努め、また縁故をたどって各方面に進出をはかるなど精励恪勤、奮闘し、三菱の関係会社と特約を結ぶなど数々の実績を上げる。

社長に就任してから8年が経過した昭和4(1929)年の春、辻は脳溢血で倒れる。辻は社長就任以来、辻は老軀をいとわず日夜刻苦精励、社業の発展に奮闘した。

しかし、当時わが国は第一次世界大戦終結による反動不況、関東大震災に続く金融恐慌などによる不況の波に翻弄され、辻社長、矢野専務を陣頭に社員一致協力して寝食を忘れて努力するも、業績は欠損続きで配当も無配状態が続き、まさに苦難の時代が続いた。律儀な辻は会社の不振を自分の責任とし、日夜苦悶したという。

その後も辻の病状は回復せず昭和4(1929)の暮、やむなく老齢の吉本亀三郎が第二代社長に就任する。辻は取締役となり専ら静養につとめたが昭和5(1930)年7月2日、死去する。

昭和14(1939)年12月、吉本の死去に伴い、この頃まさに名実ともに備わった専務の矢野松三郎が第三代社長に就任した。その後、同社は戦中戦後の苦難を乗り越え、現在は株式会社日工として土木用大型プラントの製造販売などの分野でわが国トップクラスの企業に成長している。

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