藤原長司

不屈の誠意で「広撚(ひろねん)」を育て上げ、地元福井の経済発展に貢献

藤原長司

生年 明治33(1900)年4月10日
没年 昭和50(1975)年4月24日

藤原長司(ふじわら ちょうじ)は、兵庫県多可郡重春村野村(現在の西脇市野村町)生まれ。重春尋常高等小学校高等科(現在の中学校)を経て大正4(1915)年、鈴木商店に"ぼんさん(見習い社員)"として入社。同年末、名古屋支店に配属となる。

名古屋支店で3年間、営業に従事した後、半田市、亀崎市にある食用油、肥料の製造工場に出向。1年ほどで大正9(1920)年、20歳の時、名古屋支店に復帰し「綿糸毛類部」に配属される。同年、鈴木商店は、資本金5,000万円に増資。

大正11(1922)年、人絹の担当となる。同年、満州・安東県出張所より南馬之助が名古屋支店に帰任し、満州産の柞さく蚕糸さんし(屋外で生育する野蚕種(ヤママユガ)から取る糸。タッサーシルク)の取扱いを始める。(この糸で織り上げたものは「絹紬(けんちゅう)」と呼ばれる。)藤原は、南主任の下で福井の織元へ柞蚕糸とともに帝国人造絹糸の人絹糸の売込を図り、徐々に実績をあげる。大正11(1922)年、名古屋に綿糸布取引所(現在の繊維取引所)が開設され、人絹に対する認識が高まって来たことも追い風となった。

昭和2(1927)年、鈴木商店の破綻により自身の身の振り方を思案していた藤原に、帝人の内海静太郎専務から人絹糸の販売の要請があり、鈴木商店東京支店の小橋一水、下関支店(京都駐在)の千葉順一と3人で旗揚げをする。折しも鈴木商店下関支店傘下に「広島撚糸工場」なる会社があったことから「広島撚糸商会」に商号変更して、帝人の支援の下、同年4月、京都に本社を置き、名古屋、東京にも拠点を設けてスタートした。当座の運転資金の借入保証は、鈴木商店の先輩(横浜支店長)が融通してくれたと云う。

「広島撚糸商会」は、京都本社を管掌する千葉順一が関西地区を担当、東京を拠点とする小橋一水は、両毛、米沢地区もカバーし、名古屋を拠点とする藤原は、岐阜、一宮、浜松地区までを担当した。事業は予想以上に業績を伸ばし、帝人本社も驚く程の実績を挙げた。

やがてそれぞれの拠点は独立した形態に移行し、名古屋を拠点とする藤原は、絹織物の大産地・福井が人絹に注目し、転換期を迎えることに着目して昭和5(1930)年、福井に拠点を移し「福井広撚商会」として再出発した。帝人の全面的な支援もあり、昭和7(1932)年には人絹の黄金時代を迎え、新たに「織物部」を設け、事業の一層の伸長を図った。

一方、東京を拠点とする小橋、京都を拠点とする千葉両氏の事業は挫折し撤退。順調に伸長する「福井広撚商会」は、昭和24(1949)年に「広撚株式会社」に商号変更、翌昭和25(1950)年には「大阪支店」、昭和28(1953)年に「東京出張所」を開設。

然しながら、朝鮮戦争特需の反動による相場暴落などにより、昭和26(1951)年、昭和31(1956)年の二度に亘り深刻な経営危機に陥った時期もあったが、いずれも帝人からの救済によって危機を回避、繊維の総合企業として発展した。

藤原は、地元福井の経済界、繊維業界に多大な足跡を残しており、多くの要職を歴任した。
福井商工会議所第14代会頭(昭和36(1961)年~昭和50(1975)年)
福井県繊維卸商協会初代~第7代理事長
福井県原糸織物商同業会第5~8代会長
福井テキスタイル倶楽部初代~3代理事長

また、藤原の功績に対し褒章が授与された。
昭和30(1955)年4月 紺綬褒章受章
昭和37(1962)年5月28日 藍綬褒章受章
昭和41(1966)年11月3日 福井市文化功労奨励賞受賞
昭和47(1972)年5月10日 勲三等瑞宝章受章
昭和50(1975)年4月24日 勲三等旭日中綬章受章

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