谷治之助

金子直吉を支えた鈴木四天王の一人で土佐派の代表格

谷治之助

生年 明治11(1878)年
没年 昭和32(1957)年

高知県長岡郡五台山村(現・高知市)出身。鈴木商店・金子直吉を支えた”四天王”(窪田駒吉、平高寅太郎、高橋半助、谷治之助)の一人で土佐派の代表格。

明治34(1901)年、鈴木商店に入社。柳田富士松の下で砂糖取引に従事。鈴木商店飛躍の礎となった「大里製糖所(後の大日本製糖)」や台湾の各製糖工場へのジャワ糖(粗糖)の供給や菓子の原料として使われ始めたジャワ赤双(赤ザラメ)、白双(白ザラメ)の輸入に大きな実績を挙げた。

鈴木商店は大正11年当時、ジャワ糖の2割を取り扱う大手筋に発展したが、谷は鈴木のジャワ糖開拓者として名声を博した。同時に製糖事業は、鈴木商店創業期の主要事業となった。

谷は、鈴木商店関係会社の役員を歴任したほか、鈴木商店の監査役を務めた。◇支那樟脳(取・社長) ◇東神興業(取)◇鈴木薄荷(取)◇帝国炭業(取)◇豊年製油(取)◇日本製粉(取)◇米星煙草(監)◇鈴木商店(監)

鈴木商店破綻後、谷は太陽曹達、太陽産業、太陽鉱工に在籍。太陽曹達が鉱山開発に動いた昭和14(1939)年、大東鉱山(島根県)の試掘権を谷の名義で取得し、以後、谷は大東鉱業所所長としてモリブデン鉱産出に関わったほか、昭和17(1942)年には太陽産業が大川目鉱業(岩手県)を設立すると、同社の取締役社長に就任する等、現在の太陽鉱工の鉱山事業の基盤を確立した。

さらに金子直吉が鈴木再興の夢を賭けて太陽曹達として取り組んだ”羽幌炭砿”には、元鈴木商店の幹部や金子の縁者が開発を支え、一時は「中小炭鉱の雄」と呼ばれるほどの実績を挙げた。谷も創業期(昭和15(1940)年)の監査役を務めた。羽幌炭砿の主力鉱区・築別砿には、谷の名前に因んだ”谷町”が生まれ、商店街、百貨店、生協、製パン工場などで賑わいを見せた。

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