鈴木岩治郎
一介の菓子職人からカネ辰鈴木商店を興す
生年 天保12(1841)年7月21日
没年 明治27(1894)年6月5日 享年52歳
鈴木岩治郎は、天保12(1841)年7月21日、武州川越藩の下級武士・鈴木徳次郎の次男として生まれた。菓子職人となった兄・文治郎の影響で同じく菓子職人を目指し長崎での修業の帰途、立ち寄った神戸で「辰巳屋恒七」の神戸出張所に雇われたことが、カネ辰鈴木商店の起点となった。
やがて辰巳屋で神戸店(弁天浜)を任される番頭となったが、辰巳屋主人・松原恒七が病に倒れたため、本店の兄弟番頭で恒七の女婿・藤田助七と共に辰巳屋の暖簾を譲り受ける。大阪本店がカネ辰藤田商店、神戸店(弁天浜)がカネ辰鈴木商店として再出発することとなったのは明治7(1874)年。
カネ辰鈴木商店創業時は辰巳屋恒七の商権を引き継ぎ、洋糖引取商として輸入砂糖の本格的な取扱いを開始した。創業3年目、岩治郎のもとに姫路の塗師、丹波屋・西田仲右衛門(忠右衛門)の三女よねが嫁いだ。長男徳治郎(二代目岩治郎)、次男米太郎(7歳で病死)、三男岩蔵が生まれた。
よねの実兄・二代目仲衛門はすでに独立して神戸の洋銀(外国通貨)両替商として名をなしていた。この西田仲衛門には後年、鈴木商店の後ろ盾として大きな支援を受けることになる。
洋糖引取商として外国商館との取引中心から、独自の取引網を拡げ、明治19(1886)年には神戸有力八大貿易商のひとつにまで発展。この間神戸貿易会所頭取に就任し、神戸区株式取引所や神戸商法会議所設立発起人として活躍するなど神戸財界に華々しく登場するもまもなく病に倒れ明治27(1894)年6月5日、52歳の若さで急逝した。
明治18(1885)年、兵神両港間の名士により発足した神戸倶楽部の沿革誌に、鈴木岩治郎の略歴が紹介されているが、公職および歴任した会社・団体役員は次のとおりでその活躍を知ることができる。
*神戸貿易会所 頭取 *神戸商業会議所 理事
*神戸貿易為替会社 社長 *神戸製茶直輸会社 社長
*神戸銀行 頭取 *大阪火災保険会社 監査役
*神戸取引所 理事 *日本火災保険会社 監査役
(付記)神戸貿易為替会社は、神戸貿易会所の附属機関として設立され、明治21(1888)年、鈴木岩治郎は同社の社長に選任された。同会社は、その後銀行条例発布により「神戸銀行」と改称され、岩治郎は引き続き頭取に就任した。この神戸銀行は、後に北浜銀行と合併するも破綻する。現在の三井住友銀行の前身のひとつの神戸銀行とは無関係。
また、北浜銀行には播磨造船所を発展させた北村徳太郎が入社するも破綻したため、鈴木商店に入社したことが知られている。