田宮嘉右衛門
「すべては鈴木商店から始まった」神戸製鋼所を大企業に育てあげた中興の祖
生年 明治8(1875)年
没年 昭和34(1959)年
愛媛県に生まれ。高等小学校卒業後17歳で上坂。後に鈴木商店直営樟脳製造所となる住友樟脳製造所に就職する。明治36(1903)年鈴木商店が住友樟脳製造所を買収すると金子直吉に誠実な人柄を見込まれた田宮は、引き続き鈴木樟脳製造所で働くことになり、翌明治37(1904)年田宮29歳の時鈴木商店に入社する。
折しも鈴木商店は、操業間もなく行き詰まった小林製鋼所の買収を打診され、明治38(1905)年買収を決定し神戸製鋼所と改称した。直営工場として経営するに当り金子直吉は、誠実で義理堅い若干30歳の田宮を樟脳製造所より抜擢し支配人とし、ここに神戸製鋼所の歴史がスタートした。
その後金子を頼って鈴木商店に入社した依岡省輔を取締役に送り込み田宮・依岡コンビによる神戸製鋼所の創世記が始まる。しかし創業当初の製綱技術は極めて未熟で満足な製品が出来ず、赤字が続き経営不振から工場閉鎖も再三協議されたが、田宮・依岡の献身的な努力があり苦境を乗り切ることができた。この裏には、先に整理した大里製糖所の売却益が資金難を救ったことがある。日清、日露の二度の戦争が終わり、陸海軍による軍備拡張の動きを知ると、依岡は生来の交渉力を生かし、呉工廠を初め軍需品の受注を伸ばし神戸製鋼所の飛躍の礎を固めた。
こうして神鋼発展の希望の光が見えた明治44(1911)年、神戸製鋼所は、鈴木商店から分離独立し鈴木全額出資の株式会社として再出発する。株式会社神戸製鋼所は、資本金140万円、社長には海軍省より黒川勇熊少将を迎え、田宮、依岡は取締役として経営陣に入るが、実質は従来どおり二人のコンビによる経営が主体であった。
鉄鋼メーカーとして順調に発展した神戸製鋼所は、大正期には鋳鍛鋼メーカーとして、さらには機械メーカーとしても地歩を固めつつあったが、昭和2(1927)年親会社の鈴木商店が破綻してしまい、神鋼の経営は台湾銀行に移った。
その後自主経営が実現すると昭和9(1934)年、田宮は神戸製鋼所第5代社長に就任。以来13年にわたり社長を務め、神鋼を従業員7万人の大企業に育て上げ、神鋼中興の祖として讃えられる。