西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ④「鈴木商店ゆかりの企業の幹部の言葉」

恪勤精励、温厚篤実にして真に鈴木商店の柱石たりし人

■依岡省輔(神戸製鋼所専務取締役、後・日沙商会社長)
鈴木商店の柱石
君は恪勤かっきん精励せいれい(しか)も温厚篤実の士、真に鈴木商店の柱石たりしことく人の知る所なり。君の執務は誠に繁多にして能く常人の処理しあたはざる所なりと雖も、縦横溌溂はつらつとしてしかも一糸乱れず、店務を総括する常に整然たり。

(しか)して、君は(この)激務裡に在りて悠揚(ゆうよう)迫らず、常に余裕の綽々(しゃくしゃく)たる風格ありし事、皆敬服せし所なり。即ち君は書画鑑定に卓越せる見識を有して斯界(しかい)に名あり。(きょ)(じょう)身辺に掛軸用の()(はず)を備え、事務室の楣間(びかん)掛釘の用意(まっとう)し、客あり、往々君が激務を顧みず書画の鑑定を()(きた)るや、欣然(きんぜん)として之を迎え、直ちに楣間に掲げて(たちどこ)ろに真偽を鑑別し、咄嗟(とっさ)に筆を執りて(その)鑑識せる所を便箋に記し、時に数葉に亘る。

説く所(すこぶ)る懇切、恰も慈母の愛児に教ふるが如く、其紙質表装の時代に適否より、落款の風韻(ふういん)に至るまで諄々(じゅんじゅん)として説いて徹底せしむ。(ゆえ)(もっ)て客皆感激し、斯道の達人も亦其鑑定記を見て(ことごと)く敬服せり。

君又喫煙家として有名にして、客あれば直に(すす)むるに和洋数種、自ら彼此(かれこれ)選択し、客の嗜好を求むる慇懃(いんぎん)なり。喫了(きつりょう)すれば()た勧め、客(よろこ)んで受くるや、其嗜好に適するを知り(おおい)に喜ぶの状、激務裡の人たる感なし。即ち君の如きは才徳完備、趣味高遠、真に敬慕すべき風格を(そな)えたるの士と()うべき也。

 五月雨の夜な夜な君を偲ぶ哉  岳子


■田宮嘉右衛門(神戸製鋼所常務取締役、後・同社社長、後・播磨造船所社長・会長)
温情至誠の人
故西川氏資性温厚宏懐、言行ぎょうことごとく至誠に発す。これゆえに氏の対話常に生動せいどうし、胸中何等の墻壁しょうへきなく温情溢るるが如し。殊に下を導くに極めて篤く、問に答えてその理解するを見満悦せらるるの状、そぞろに氏の意気に感ぜずんばあらざるものあり。

之が為氏と語る者、縦令(たとえ)其対話の(なか)、策を(ろう)せんとすと(いえ)も、(たちま)ち氏が温情の発露に打たれ翻然(ほんぜん)として肝胆(かんたん)()(れき)するに至ると云う。(むべ)なるかな。古人句あり「月天心に(いた)る時 風水面を渡る処」と。
予はきょじょうこの句を愛誦あいしょうし、吾人ごじんきょうかいすべからくくありたきを思えり。

(のう)(じつ)氏の襟度(きんど)に接する毎に此句の感懐(かんかい)を深くし、欽風敬慕禁ずる(あた)わざるものあり。思うに氏が躬行(きゅうこう)の教化は鈴木商店の進展と共に(とこし)えに不朽と()うべし。(ここ)に予の最も深く感受せる氏が風格の一端を録して畏友(いゆう)森衆郎氏の梧下(ごか)に呈す。


■米田龍平(札幌製粉技師長兼支配人、大里製粉所工場責任者)
の一事
大正十年頃の天候静穏せいおんにして寒気暖かに心気自らかいを感ずるの時、故人西川文蔵君を追懐するの情甚だ切なるものあり。君は活動の人として終始勇躍奮闘、その鈴木商店に在るや謙譲自重じちょう、以て内外に信望あり。

即ち鈴木王国に於ける四天王の随一として其枢機(すうき)に参与し、精励(せいれい)恪勤(かっきん)(せい)(ちょく)謹厳(きんげん)を以て身を持し、後進に其範を示すと同時に最も情宜(じょうぎ)に厚し。(しか)り、君は実に現代的紳士にして(しか)も現代稀に見るの人なりき。

特に君が厳格なる性行(せいこう)の表現として、公私の書信(しょしん)に接する毎に事の大小軽重を論せず、或は業務以外の事柄と(いえど)(いや)くも之を等閑(とうかん)放任するが如きこと断じて無く、最も懇切機敏に応答するに在り。

余が(かつ)て米国に在るの時、君に一書を飛ばして回答を要望せしに対し、事の業務以外なりしに拘らず直ちに懇切丁寧に詳細なる(かい)(しん)に接せし為、却って意外に研究せざるべからざるに至り、()(えき)せし所多大なるを痛快に感じたることありき。

()の一事を以てするも、君の人と為りを追想するに足るべし。君今や逝きて既に亡し。(うた)追惜(ついせき)の情に堪えず。偶々(たまたま)今回知己同志相寄りて、君が追想録を編輯(へんしゅう)するの企画ありと聞き、(いささ)か所感を(ろく)して之に(こた)うと云爾(のみ)

以上、「脩竹余韻」(大正10年8月15日発行、編輯兼発行者:森衆郎)より

■町永三郎(元神戸製鋼所社長)
西川文蔵大先輩について(遺稿)
西川さんは私にとっては大恩人の一人であります。考えようによっては私の運命を転換させていただいたじんともいい得るのでありますが、けだし金子、西川の両大先輩は必ずしもピンからキリまで常に意見が一致して名コンビではなかったかもしれません。

しかし、金子翁の長子が「文蔵」と命名されているのを見ると、この両雄の間には黙々ののうちに肝胆相(かんたんあい)()らし、互いに双情相応ずるものがあり、暗々裡(あんあんり)に一脈通ずるものがあったのではあるまいかとも思われるのであります。

もっとも、私としては入社以来常に格別のお世話に預り、且つまた非常な恩義を受けましたが、その中で最も深く感謝していることを申します。

私は大正二年七月、大阪高等工業学校機械科を卒業しました時、学校側から満鉄に就職するよう推薦されましたが、私は若い時から是非とも将来鋳鋼業界の会社に入りたい希望を持っており、それが一貫した自分の生きるコースであると考え、且つ確信していましたので、ほとんど決定しかかっていた満鉄の方をきっぱりと断わり、当時鈴木商店の支配人であった西川さんにお会いして、私の希望を縷述(るじゅつ)した上、入社を懇請したのであります。

ところが早速ご紹介状が功を奏し、神戸製鋼所に就職することができ、そのお陰で及ばずながら爾後五十数年間にわたり日本鉄鋼業の発展に尽すことができるようになったのであります。

今からその当時を振り返って見ますと、まことに感慨無量なものを痛感いたします。西川さんはあらゆる点において、当時の鈴木商店ひいてはわが国の産業界にあってもその迫力は一際(ひときわ)群を抜いて素晴らしいものがあり、またその人格識見も実に立派な英国紳士でありましたが、惜しいかな発展興隆の途上大正九年五月、享年四十七歳(満46歳)の若さを以て早逝されたことは、ただに鈴木商店関係のみならず、わが国財界の一大損失であったことは申すまでもありません。

私は、ご生前親しくお会いしたことはわずかの三回だけでありましたが、静かなること林のごとく、限りなき人間的な深さを感ずる典型的産業人であったと、今でも懐かしく思っております。

以上、辰巳会・会報「たつみ」第23号(昭和50年8月1日発行)より

  • 依岡省輔
  • 田宮嘉右衛門
  • 米田龍平

TOP