西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ③「鈴木商店の社員の言葉」

鈴木商店の柱石として不動の礎を築いた、余人をもって代えがたき名支配人

■日野誠義(鈴木商店会計主任)
我が鈴木商店に於て清廉潔白にして温厚篤実なる紳士を求めんには。必ず先ず指を故西川氏に屈せざるを得ず。氏はその人と為り謹厳にして勤勉。人と約するや時刻を違えずげんまず、努力奮闘まず、たわまず、しかも終始一貫せることはあたかも軌道をはしる汽車の如く、指導誘掖ゆうえき身を以て範を示し、筆舌を以て人を教えず、故に一回も演説を試みしことなく、又ひっぽうふるいしことなし。

(しか)(ども)衆望之に帰し、三千有余の店員等仰いで以て之を敬愛し、(あたか)も厳父、慈母を見るの(おもい)あり。其逝ける時、店主偶々(たまたま)朝鮮に旅行し尚往途に在りしが、之を聞くや慟哭(どうこく)痛惜(つうせき)、京城より直に引返し帰り、之を弔意して百方(ひゃっぽう)至らざるなし。店衆も(また)之を聞き、驚愕()く所を知らず。真に恃怙(じこ)に別るるの思を為し、弔電星馳幾百なるを知らず。以て其感化の深きを知るに足る。

金子氏は実業界の俊傑なり。理想高遠(こうえん)経綸(けいりん)雄偉(ゆうい)蓋世(がいせい)の才を以て事業を企て、萬艱(ばんかん)(おそ)れず、千難屈せず、功成りて喜色なく、挫折して憂色(ゆうしょく)なし、常に満を持して放たざる弓の如く邁進(まいしん)勇往(ゆうおう)、是れ氏が事業の成功せる所以(ゆえん)なり。

然れども此裏面には(じゅん)(ぼく)柳田氏の如き、純潔西川氏の如き一意専心(いちいせんしん)之を補佐する人の在りしことを思わざるべからず。然らざれば其功績、或は今日の如くなる能わざりしやも知るべからず。(むべ)なり金子氏が両氏を左右の翼と為し、後継者と頼めること。(しか)るに一朝夭折(ようせつ)し、其れをして遂に空望に帰せしめしは真に惜しむべきなり。

氏は明治二十二年入店し、金子氏の直轄事業たる樟脳の購入販売等に従事し、傍ら記帳を(つかさど)りたるが、常に職務に忠実にして己の仕事は必ず其日の中に決了(けつりょう)し、(しか)も一点の遺漏あるなし。此の如く平生自己の職責を重んずると共に、他人が如何程多忙を極むるも決して之を顧ることなく、自己の仕事を終わるると直ちに帰宅するを常とす。

(これ)上長(じょうちょう)の鼻息を窺い、用事も無きに徒に()(あん)に向う者と其趣を異にす。動作の超然として衆に卓越せること(かく)の如し。而も上長下僚一人として之を怪む者無し。是(その)徳を信ずるが故なり。

又算数と筆蹟の巧妙迅速なる殆ど天稟(てんぴん)とも()うべく、之に匹敵すべき者なし。頭脳の明晰にして綿密なること以て見るべし。是を以て記帳の過誤は(かつ)て一回も之なし。其青年輩の記帳の粗漏にして違算(いさん)あるを見、(かん)()として微笑を漏されしは余の往々見し所なり。

(すべ)て商人にして計算の粗漏なるが為に其損益を顚倒(てんとう)せること其例少からず。(けだ)し多くの失敗は因を此に発するなり。又其筆蹟に至っては殆ど書家に匹敵す。屡々(しばしば)金子氏の為に代筆せられたるが、其迅速軽快の筆致、見る者をして驚歎(きょうたん)せしむ。

余が初めて氏に接したるは明治三十七年の(ちゅう)()、炎暑()くが如き日なりき。然るに氏は(げん)(ぜん)として端坐(たんざ)し、衣服清楚、風姿端麗、一見貴公子を見るの(おもい)あり。私に敬意を表したり。爾来(じらい)最近に至るまで交れば交るほど礼儀に厚く、阿諛(あゆ)(しりぞ)け虚礼を排す。余其厳正なるに感服せり。

明治四十一年二月、支配人の職に就くや繁劇(はんげき)なる萬般(ばんぱん)の店務は(ことごと)く氏の双肩に懸り、一々裁断を為すに至れり。然るに常に最善の方策を尽し、()く之を遂行して一点の缼陥(けつかん)もなかりき。偶々(たまたま)我等が氏の意見に対し、(これ)()くあるべきにあらずやと進言する時、()し其意見正しからんには直に之を()れ、(かつ)自ら其謬見(びゅうけん)なりしを言うに(のみ)ならず其態度に一点の私心なく、光風霽(こうふうせい)(げつ)の如き感あり。

余は人と意見を(たたかわ)したること少からず、多くは皆百方(ひゃっぽう)自己の僻説(へきせつ)を弁護固執し、或は自己の権威を以て之を擁護し、甚しきに至りては他を圧迫するものあり。氏の如きは実に従来未だ(かつ)て見ざる所なり。

氏の親戚故舊(こきゅう)、氏の(せい)(ぼう)を慕い因縁入店を希望する者(また)少からず。此際氏は一々之を重役金子氏等に謀り、(しこう)して後其採否を決し、専断せしことなし、若し其中の一人にても不都合の行為あらんには直に之を解任し、親戚故舊(こきゅう)(ゆえ)を以て特に之を庇護することなし。是の故に人其公平無私に復せざる者なし。

氏常に(いわ)く、資本主は主権者なれば論外なれども、店員は皆同等なり。職務に高下あれども人に上下なし。地位の高き者も決して驕傲(きょうごう)の態度を持すべからず。宜しく同心協力、兄弟姉妹の如くにして事を処理すべきなりと。(ゆえ)(もっ)て其支配人たるや、常に同輩下僚に対し其人格を尊敬し、其権利を尊重し、(ごう)も之を蔑視するの態度なし。是れ上下一般の同氏に対する尊敬一層篤かりし所以(ゆえん)なり。(抜粋)


■楠瀬正一(鈴木商店社員、後・鈴木薄荷社長)
家庭の人、金子氏の女房役
故人の性格は稀に見る温厚かつ謹厳な人であった。しかも同僚に対しては信義に厚く、部下に対しては温情くるが如く、真面目にして私なく、即ち一旦同氏に接近した者はひとしくその徳望を慕わない者の無かったのもむべなるかなである。

私は同氏の下に殆ど一日も離るることなく、約十四年間氏の訓練指導を受けた者の一人であるが、資性(かく)の如き人であった為に其逸話に(つい)ては誠に少く、(むし)ろ無いと云ってもよいと思う。強いて書くならば、故人は世に稀なる円満な家庭の主人公であった。

氏は令室を迎えられて以来二十有余年間、(もっと)も店務の都合もあられたが単身にて数日に亘る旅行をされたことは前後殆ど二三回に過ぎなかった(はず)である。(しこう)して(この)間夫人との間に二男四女を設けられたのである。

氏は絶えず非常に多忙であったが忙中趣味としては誠に高尚で、書画骨董が唯一の楽で実に堂に入ったものであった。店の代表としての交際上、随分頻繁に宴会に出席された時代もあるが、必ず夜十時を期して帰宅された程家庭に対し温かい人であった。

同氏は東京商業学校に学ばれ、明治二十七、八年頃鈴木商店に入られた。其当時の鈴木商店は未だ(ごく)微々たるもので、到底今日の隆盛なる大鈴木とは比較さるべきものでは無かった。当時同氏の学友達は新()(しき)者として大会社、銀行、或は外国商館に、或は海外渡航と所謂(いわゆる)新流行を()ってハイカラ気分を(みなぎ)らせて居たに拘らず、同氏は当時の小鈴木商店の為に一身を投じて奉公された。

或時は早朝より(おき)()でて主家の神棚の掃除迄せられた。(しこう)して(いん)(よう)に金子氏の女房役として援助に務められた。勿論角帯(かくおび)前垂(まえだれ)がけであった。其当時校友会にて洋服を着ぬ人は同氏一人であったとのことである。

()くして表面の金子氏と共にあらゆる辛酸を()めて主家の隆盛を図られたのであった。遂に其結果は大里精糖所時代となり、(ようや)く世に知らるるに至り、続いて旭日昇天の勢を以て今日の繁盛を見るに至った。而して同氏は去明治四十一年、世界各国数十ヶ所に支店出張所を有する神戸本店の支配人として押しも押されもせず就任され、内部の柱石として千載不動の礎を築き上げられたのである。

同氏は陰に金子氏の内助役を勤められ、主家に仕えては忠実であった。又()下情(かじょう)に通じ、部下に対しては無理な要求なく、而も厳格であった。而して故人の天性温厚篤実、個人としても非常に情に厚き人であったので、()く数千の店員を心腹せしめられた。

即ち長年月間、一度として内部に於て同氏に対する不平の声を聞かず、(すべ)ての人が其徳を称えたことは、正しく故人の人格を語るものと()うべきである。誠に大商店の支配人として得難き人である。私は(ここ)に繰返して紹介したい。鈴木商店の今日あるは、故人が金子氏を内的に援助されたことの(あずか)って力のあるを。(抜粋)


■椋野武吉(金子直吉の秘書)
真の紳士
私が入店して初めて西川氏の謦咳けいがいに接したのは明治三十九年で、まだ番頭さんの時代のことである。その頃の本店は栄町三丁目に在って商売は樟脳、薄荷、砂糖、麦粉位のもので、店員も僅々きんきん三十人足らずであった。

西川氏は樟脳部の主任で、其部下には入店して間の無い楠瀬正一君と金銭出納の傍ら一部の帳簿を手伝う浅田泉次郎君とが居っただけで、日々の手合から外国への引合、帳簿の記入まで一切を氏自ら行って居られたが、字が達者で算盤そろばんが正確で試算の合わぬなど云うことは決して無かった。その代り自分の担当以外の事は見向きもせぬと云う風であった。

其頃洋服を着たものは、先年歿くなられた上田観水翁だけだったと思う。其他はすべて和服で、西川氏も結城ゆうきか何かの着物に角帯かくおび前垂まえだれ掛けと云う服装であったが、極めて上品な上に自ら威厳が備わって居って、ボンサーンとのわだかまりの無い大きな声で呼ばるる有様が今なお眼に見えるようである。

私は初めて会った時の故であったろうか、西川氏の真面目がこの時代に最も善く現れて居ったように想われて深い印象が頭に残っている。その後支配人になられ、商売の事から人事の方面に至る迄全般の事を見らるるようになったが、店の膨張発展と共に愈々いよいよ練達の妙境みょうきょうに入られ、衆望を負うて刻苦こっくれいせいせられたが、其れだけ又一面に於て心労も多かったことであろう。

西川氏の嗜好は煙草。趣味は書画であった。近頃は誰も彼も書画をもてあそばぬものが無い様になったが、西川氏はまだ世間でかしがましく云わぬずっと以前からどうに趣味をたれ、逸品を集めて居られた。そして鑑識が高く、多忙な支配人室に書画を持込んで来て鑑定を乞うて居る人をよく見かけたが、此はいかぬと見れば相手構わず手厳しくけなしつけると云う風で、御世辞などはちっともなかった。

ばいがいの書、華山かざんの書等は最も好きだと云うて居られた。またしゅうちくと号し、竹を愛せられたことは周知の事実だが、梧桐あおぎり棕梠しゅろまた好きであったらしい。前庭に多く植えられ、其書斎を棕梧書楼と名づけて居られたのでも判る。

是等の趣味にかんがえて見ても其為人ひととなりが偲ばるる如く、極めて正しいしんちょくな気性のうち温雅おんがな所があって、真の紳士とはまさしくこんな人を指して云うべきであると思わしめたのであるが、天寿をさず、よわい知命ちめいにも達せずして逝かれたのは返す返すも惜しいことである。(抜粋)


■岡清一(鈴木商店社員)
西川支配人を偲ぶ
私は大正七年の二月に入店し、七月に庶務係から支配人室詰となりまして以来机辺つきへんに勤務して日夕御鞭撻を受けて居たものですから、二年足らずの短い年月でありましたが、同室に在りし関係上森様(もう一人の支配人)と共に御平常の事どもく存じて居ります。

()れだけに今度の不幸に()っては感慨無量で、真実()(しん)(うしな)ったより以上に痛ましく感ずるのであります。御在世中の事ども瞑想しますと、次から次へと脳裏に浮んで来ます。

〇精勤なりしこと 
私の知って居ります範囲で、日曜日で全休せられたことは皆無と言ってよろしい。ただ退店が平常の日より数時間早いだけであります。そうして平常は毎日朝の八時過から夕の七時過迄終日店に居られましたが、店に居られるといっても一日中に二三度金子様の部屋へ要談ようだんの為行かれる外は支配人室に在って、内外の通信に来客の応接にすんかんが無かったのです。誠にくもあれだけ気力が続くものかと感心せずには居られませんでした。

〇頭脳明晰なりしこと
書類の通覧つうらんが実に早い。そうかと云って乱読でなく、一度目を通されたものは再び手にされない。チャンとその脳裡に入って仕舞うようです。それゆえ内外の通信商談等も既往きおうの事が立所たちじどころに浮んで来て裁断処理が速く、又一度引見いんけんせられますれば十中八九迄はその人と名とは判って居て、其後一二度会われたものならモウ名簿に登録されたと同様に確かで、すこぶる記憶の良い人でした。

又、商業学校在学中から珠算の名人であったと同窓の方に聞きましたが、鈴木商店で会計記帳方の仕事を行って居られた時代にも名人と云わるるだけあって、計算の間違いや帳尻の不突合等は全く無く、同氏が取扱われた計算書は検算の要が無いと云われていたそうです。

〇能文達筆なりしこと
手簡しゅかんと云ったら天下一品で、簡単な用件で短いものもありますが、中には随分長文のものもありました。然し如何いかほど長い書簡でも文中同じことを繰り返したり、要領を得ないと云う様な箇所は更に無く、面白い例を引いたり寸鐡すんてつ人を殺すと云う様な箇所もあって、全体が通俗平易で実に読み心地のよい雅味がみのあるものでした。

それに(すこぶ)る達筆で、書かれることの早いと云ったら常人のマネの出来ない程で、草稿を用いられること更になく、思うに任せて筆なりペンなり走らせて居られたのです。便箋は瞬く間に書悉(かきつく)される。あの上部の一端が糊付けされて居る便箋の一枚一枚を逐次取放される音 ・・・・。

〇温情深かりしこと
至って口数の少い方ですから、一見するとおそるべく親しむべからざる人の様に思われますが、忠実に働く者に対しては何時も誉め言葉をかけられ、時には自ら物品等を贈られました。殊に不幸なる境遇に在る者にはいたく同情せられたので、氏の厚情によって幸福に其日を送って居らるる方々は公私共幾人あるか分りませぬ。

(てん)(どう)中勤務の成績佳良(かりょう)であり(かつ)頭脳も良く、将来嘱望すべき者は店費を以て上級の学校に入学させるようの(みち)を講ぜられたのも氏の御発案で、現在此恩恵に浴せる諸子も少くありませぬ。

私邸に在っても召使の者に至る迄心を寄せられ、忠実に長く務めた女中などは相当の年配になって一家を構えるときは、其れ相応に(はず)かしからぬようにして()られたそうです。

〇時間を厳守されしこと
すべて几帳面で約束等は厳守され、時間の如き最も励行されました。時々店用で宴会等に行かれましたが、約束した時間には必ず出掛けられました。若し其時間に対手たいしゅが来て居ないときは、直に人を呼んで聞かれ、又対手の方が約束の時間に来なければ「ナニをして居るのか」と独り言されることもありました。

〇経済を重んぜられしこと
店にて日常使用する文具品は数量価額とも大したもので、便箋でも良いのは一枚数銭に当るのですから、「此れは勿体ない。モー少し悪いので結構だ」と云われたこともあります。鉛筆の如きも、短くなれば鉛筆挟に挟んで用いられた位です。

来翰(らいかん)の西洋封筒は必ず保存して置いて、簡単な用事には之を割いてメモの代りに使われました。外部へ出される手簡(しゅかん)でも、社内の人等には便箋一枚にモー一行か半行で書終ることの出来る場合は別の用紙に移らず、其欄外に認めらるると云う風でありました。

〇公私の別を明かにせられしこと
ともすれば混同し易いものですが、私の見た所で氏ほどかくぜんと区別された人は少いと思います。当然店用と思うものでも、私邸から持参されたものを用いて居られました。

〇書画の鑑識眼高かりしこと
店では新聞一枚も緩々ゆるゆる読まれることの出来ない多忙な処へ、多方面から書画掛幅かけふくの鑑定を乞う人が多数ありました。店務の際に一瞥いちべつされて、即座に対手たいしゅ構わず真偽を話して居られました。其れがすこぶる淡泊でした。若し偽物であると鑑定されたときには、一々其点を指摘してねんごろに説明して居られました。

〇竹を愛されしこと
氏の性格を一口で云えば、丁度竹の様に真直で俗に云う竹を割ったような性格の持主でありました。日頃故人が竹を愛されて庭園に多数の小竹を植えられ、「緑竹清々居」ととなえられたり。自らごうして「脩竹」といわれたのも決して偶然ではありませぬこのほか氏は梧桐あおぎり棕梠しゅろ、八ッ手等もお好きだった様で、邸内には是等の植木で満たされてあります。

〇愛煙家なりしこと
一日中煙草を手にされない時は、執筆中の外殆ど無かったほど愛用されたものです。其煙草は主に葉巻で、中間に両切りょうぎり口附くちつきなどを用いられました。斯様かようにご自身がお好きですから、要談の長い客には机の中から箱入の葉巻を出して勧められるのを屡々しばしばお見受けしました。

〇家庭に於ける西川氏
夫人のお話にも、「主人は毎朝五時には床を離れ、ほこらと仏前に詣で、礼拝されてから朝食を取り、朝の新聞を一通りて店へ出勤されるのが常で、夕は七時過に帰られると早速お湯に入られて後食事をし、それから其日到着した来信と夕刊新聞に目を通され、又書籍等も読まれて時計が十一時を打つとサッサと寝室へ行かれました」とあった位で実に規則正しい生活を続けられて居たようです。

尚タマの休祭日で在宅の時などでも(ひる)の間に横臥(おうが)して書見(しょけん)されるとか、横臥の(まま)談話される(など)いうことは一度も無かったそうであります。亡くなられて以来満七ケ月間私は同家に居りましたが、其間にお子様達一人として晝間(ひるま)無作法に横臥されたりしたのを只の一度も見受けなかったのは偶然でないと思います。

〇御羅病(りびょう)の次第
平素は至って壮健な方で、病気の為に欠勤されたことは殆どありませぬ。処が七年の八月十二日、不幸にして鈴木商店が災厄(鈴木商店本店焼打ち事件)にった当時、店の将来の事などで店主及重役の方々と共に日夜心痛され、数週間は食事も碌々ろくろくべられなかったとの事で、著しく健康を害されたのは其れ以来のことであると聞いて居ます。

胃腸を害されたもの此頃で、其後売薬()療治(りょうじ)等続けられて居たようです。九年の初め以来血色(とみ)に悪く見受けられたので、数多の人からも養生法や受診の事など勧めて居られましたが、著しく血色が悪くなったとお見受けしたのは二月頃であります。

ドウモ腹具合がよくない、店の食堂に行くと途中炊事の香が鼻に入ってムッとして食べられないなど言われて、態々(わざわざ)お宅から午のお弁当を取寄せられるとかパンを用いられるとか、又外出して食事を済まされるとか色々やって居られました。・・・・ (抜粋)

以上、「脩竹余韻」(大正10年8月15日発行、編輯兼発行者:森衆郎)より


■澤村亮一(鈴木商店社員)
西川さんが亡くなられて、もう半世紀も経つと聞いて今更の様にビックリする。行年ぎょうねん四十七才と云うと丁度辰巳会のメンバーの誰よりも年下で、人生の働き盛りに可惜あたらの世にサヨナラされたものである。

それにしても、()の頃まだホヤホヤの私共の(まぶた)に映じた支配人の(おもかげ)は相当なお年寄りに見え、アノ特徴ある才槌頭(さいづちあたま)と発想の時の一寸(ちょっと)した「どもり」の癖がこよなく印象に残って居る。その人間的な息吹は日常の挙措(きょそ)(まこと)に物静かな方で、相好(そうごう)呵々(かか)大笑(たいしょう)することなどついぞ見かけた事がなかった。

之を(たと)えて見ると、緑陰(りょくいん)深き渓流の時をつくっては底知れぬ碧潭(へきたん)となる見たいに、親しむべくして()れるべからざる或る威圧を感じせしめた。(かつ)(しゅう)(ちく)余韻(よいん)三九八頁にその永別(えいべつ)を惜しみ、書を寄せて「雪折れの竹を悼むに似たるかな」の句を引き、西瓜の様な円満と、溢るる(せき)(せい)の血汐は肝に銘ずるものがあったとの述懐を今亦改め思い浮べる。

爾来(じらい)風雪五十年、(うずみ)()の灰ともならずに無為の傘寿(さんじゅ)を重ね、ここにその回顧録を綴る機縁に恵まれ冥加につくるを覚える。

一口に半世紀を云うのも其の年輪の間に辰巳会から七人もの大臣が出、功成り名遂げて会社の重役の地位を後進に譲られたものや、早くから独立の旗を揚げ、現に一城の主に収まり活躍中の者等、実に百花繚爛(ひゃっかりょうらん)の其の中に(わず)かに(しこ)(ぐさ)として其の影を保って居る我等をも含め、鈴木王国絢爛(けんらん)の昔恋しき銀座の柳、西川さんの数限りない遺徳の追憶は何時までも果てる事のないのを感じる。御在世時代のゴシップを思い出すまま随筆に綴り、御高覧に供する。

〇金子さんの長大息ちょうたいそく
さて、西川さんの御通夜の帰りの事、偶々(たまたま)金子さんの車に便乗を許され、西川邸布袋(ほてい)石像の玄関に別れを告げ下山手の街角を曲らんとする際、私は「西川さんもお亡くなりになり、(まこと)に御気の毒ですね」と口を切ったものだ。

その言葉の切れるや否や「何、気の毒、それ所じゃない、マッコト残念に堪えぬ!」と長大息(ちょうたいそく)されて、あとは無言の境。全く冷水三()を浴びた心地して慄然(りつぜん)恐懼(きょうく)()く所がなかった。それもその(はず)、金子さんは大正六年(正しくは"大正四年")十一月一日付を以て例の二十一尺に及ぶ浩瀚(こうかん)を以て()(いつ)のカイゼルを凌ぐ制覇の(とう)(こん)を見せ、その野望達成の片腕にした知己のサムライの死に直面しては失望のショック覆い難く、親の心子知らずの世間並の辞に憤然とされた事は、其の語気で十分察せられるところである。

「鼠」(城山三郎の小説)は(この)間の消息を伝え、鈴木商店の運命について一八二頁に、西川さんの死がなければ鈴木商店の破綻は避けられたかも知れぬと云う推測に対し、西川政一社長(西川文蔵の女婿、当時日商岩井の初代社長)はいみじくも次のような答えを報じて居られる。

「生きて居れば早晩発狂することになったかも知れぬ」と。御両人が如何に肝胆相(かんたんそう)(しょう)の間柄であったかは金子さんの愛児(長男)の出生に文蔵の名を授けて私淑の程を啓示されて居らるるのでも察せらるる。

)

〇西川さんの嗜好と()の歩み
先ず、ヘビースモーカーとハイカーである事を挙ぐる。愛煙家としては量よりも質本位で、支配人室には大きなよろいとびらのあるデスクの上に台湾産のシガーレットケースがあり、その中にハバナの葉巻と口付くちつきの敷島、両切りょうぎりのスリーカッスルなどバライテーに富んだ煙草がつめてあった。

宵闇せまる頃になると「坊さん、車」の声と共に腕車(わんしゃ)を馳せ、紫煙の香りを後に山手の御宅に姿を消して行かれた。

ハイカーとして周辺の再度山(ふたたびさん)など小丘(しょうきゅう)()でられ、善助茶屋で若い者と一緒に喫茶とカルケットを(たしな)まれたりした。(たま)には、遠く店員達を連れて霊峰高野山に迄足を伸ばされた。その頃の高野山は勿論登山鉄道もケーブルもなく、不動坂から上の行程は壮者(そうしゃ)も息つく(けん)(どう)であった。

鬱蒼(うっそう)たる深林を辿って(みず)卒塔婆(そとば)(したた)る奥の院に至り、万年灯の前に一同威儀を正すと僧形はすかさず、「摂津の国の住人西川文蔵外何名寄進」と大声に読み上げた。ここでは天下の鈴木商店の西川さんも我々若い店員共も一切平等、触光(そっこう)柔軟(にゅうなん)の恵みを満喫した。

西川さんの道楽に書画骨董いじりがある。元町の骨董屋の播新太田氏とは特に親交があり、クラシックから近世に(わた)る広い範囲の筆墨を鑑賞され、就中(なかんずく)()昌碵(しょうせき)(かん)(せつ)などは特に多く秘蔵された。(おい)(だに)の霊域にある故人の墓碑銘は前者の筆であるのは余りにも有名である。

御自身(また)仲々の達筆で枯淡(こたん)の筆勢は今に誉れ高く、金子さんの公式の文書は秘書の椋野さんが専任になるまでは、すべて西川さんが代筆されたものである。巻紙を握り金子さんの口述、拝啓陳者(のぶれば)と一字一句(たが)わずにデクテートするのは仲々骨の折れる仕事で、推敲(すいこう)に推敲を重ねた文章も時には冒頭から書き改める様な場合もないではなかった。

西川さんは君命を奉ずる(かん)(こう)みたいに従順に其の言葉に添い、金子さんも一切ならず其の労を(ねぎら)われた。(抜粋)  

以上、辰巳会・会報「たつみ」第11号(昭和44年7月10日発行)より


■木畑竜治郎(鈴木商店社員)
大正九年の末と云えば一頃の大戦景気も少し落ち着いて、人気(じんき)も次第に締まり加減になり、経済界も稍緊張気味の気配を見せ始めたが、この時点ではまだまだ鈴木商店の実力は微動だにせず、漸く最盛期に蓄積した財力を生産方面に振り向け、工場の新増設、新分野の開拓、子会社の設立等、多角経営の総合商社として断然重きをなした時期である。

元日は年賀の祝賀式を亜米三倶楽部で美々(びび)しく行われるのが近年の恒例となっていたが、今年のお正月には西川支配人のお姿がない。昨年の下期から森衆郎支配人が一人で何から何まで指図をとられ、決裁を下して本店の運営を切り廻され、大変な重責を遂行して来られた。

新しい年の輿望(よぼう)(にな)って年賀の席にお着きになったが、その重役席に西川さんが見えないのが新しい悲しみとやるせない失望を再び思い起こさせるのであった。お家様も御主人も金子さんも柳田さんも、心なしかぽっかり空いた心の空席をそれとはなく意識の底に秘めておられるように思えた。

その年賀式もさる事ながら、新しい年に新しい社屋で清新(せいしん)の気の(みなぎ)る中で馬首(ばしゅ)を揃えて仕事を始めるのに西川文蔵支配人に、この首途(しゅと)を見て頂けないのが何としても口惜しい限りである。西川さんは本店の大黒柱であった。若き鈴木商店はよい意味での下剋上の場であり、その一番よき理解者で一番の育ての親が西川さんである。

大黒柱は多くの支柱に支えられて棟木(むなぎ)垂木(たるき)長押(なげし)をしっかと支え、屋台骨をびくともさせなかった。それが一本、思いもかけずに抜けてしまったのである。西川さんが亡くなられてから早半年経った。省みれば大正九年の三月、やよいの空に春近しを思わせる頃、不図(はからず)病を得られて宇治川の店にお姿の見えぬ日が続いた。

ほんの仮いたつきと聞かされていたのに、それから僅かに六十日、五月十五日に忽然(こつぜん)としてお亡くなりになったのである。よもやと思っていた鈴木商店の全部の人々はあまりの事に声も出ぬ程驚愕した。

胃潰瘍と云う、今ならそう心配する程のこともない病気で、しかも働き盛りの四十七歳と云うお歳では只もう天の無情を怨むしか他なかった。鈴木商店の繁栄に一縷(いちる)の陰影がきざしたとは、神ならぬ誰が予想したであろう。西川さんご健在なりせば、鈴木商店の運命も亦違った道を歩んでいたかも知れぬとは、後年誰もが一度は口にした繰り言である。

移転する前の東川崎町時代の事、見習員の私は或る日、支配人室で西川さんの横に直立して署名をお願いする書類を机の上に置いた。西川さんはチラと私を一瞥(いちべつ)されたまま一向に筆を持って下さらない。時間にすればほんの数分の事であったろうが、私には可成り長い時間の様に思えた。

しばらくして、フッと我に帰られた様な支配人は傍らに小僧の私がいるのを見て急に気を取り直した様に机の上に目をやり、書類を一通り見てから静かに署名をして下さった。そして何を思われたのか「一寸(ちょっと)待て」と云われて、ギャラリの机の上段の棚から何やら取り出して一言、「たべ給え」と言われて書類と一緒に下げて下さった。

私は訳が分からぬまま只頭を下げて、有難う御座いますと小声で云い乍ら(うやうや)しく頂き物と書類を手に引き下がった。頂き物は、その頃の神戸でもまだ余り行き渡っていない輸入物で、高価なヴァンホーテンのチョコレートであった。嗜好品の好きな西川さんは常にハバナの上等の葉巻とチョコレート類を身近に置いておられた。私は勿体(もったい)なくて食べる気がしなかったが、それよりも私ごときに心くばりをして下さったのが私には何時迄も忘れられなかった。私は西川さんを(にわか)に身近に感じる様になった。

春先の或るお天気の好い朝、(中山手の西川さんの本宅にて)私は思いがけずに縁側のガラス戸を開けて椅子に腰を下ろしておられる和服姿の支配人を、くぐり戸の此方(こちら)からお見かけした事があった。私は丁寧に最敬礼をしたら、「ご苦労さん」と云う意外にお元気なお声が返って来た。それが、私が見た支配人の最後のお姿であった。(抜粋)

以上、辰巳会・会報「たつみ」第21号(昭和49年8月10日発行)より

西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ④「鈴木商店ゆかりの企業の幹部の言葉」

  • 西川文蔵の結婚当時(明治32年1月)

    左は京子夫人

  • 西川邸と梧桐、棕梠、八ッ手等が植栽された庭園
  • 楠瀬正一

TOP