柳田富士松
金子・柳田コンビで鈴木商店の再出発を牽引
生年 慶応3(1867)年
没年 昭和3(1928)年
辰巳屋恒七こと松原恒七の長男、幼名・藤松と称した。恒七は辰巳屋先代の次男であったことから先代の幼名に因んでつけられたという。藤松は恒七の妹の養子となり柳田性を名乗る。明治18(1885)年18歳の時、辰巳屋本家筋から暖簾分けした辰巳屋〈カネ辰〉鈴木商店に入店。金子直吉が入店する1年前であった。
当時の鈴木商店は洋糖引取商として着実に地歩を固めつつあり、大阪の有力糖商5社のよる洋糖商会を設立して香港車糖の共同組織による一手引受人となり販売カルテルを実現させていた。柳田は店主鈴木岩治郎がなくなるまでこの洋糖商会に出向していた。初代岩治郎の急逝により、よねが店主となり柳田が砂糖部門、金子に樟脳部門を任せ、柳田・金子体制による舵取りがスタート。金子より1年早い入店の柳田は金子の手腕に一目置き、金子を主役、自分は脇役として支えることとして名コンビが誕生。
柳田の指揮により砂糖部門の取扱いは、飛躍的に伸びた。特にジャワ(現在のインドネシア)糖では鈴木は世界一流の大手筋として知れわたった。ジャワ糖の生産高はピーク時で年間290万トン程度だったが、鈴木商店はその二割を取り扱っていたといわれたが、柳田の“洋糖商会”以来の豊富な経験による手腕によるものであろう。