柳田富士松に関する関係者の言葉シリーズ②「鈴木商店の元幹部の言葉」

得意先や銀行からの信頼は絶大で、人間味豊かな慈父ともいうべき人

■谷治之助(株式会社鈴木商店監査役、羽幌炭砿鉄道監査役、鈴木商店四天王の一人)
明治三十四年に私(谷)が入店した時、鈴木商店は砂糖部と樟脳部に分れて居た。砂糖は主として輸入糖を取扱い、樟脳は主に輸出であった。その砂糖の方は柳田さんが全権を握って指揮されていた。砂糖は輸入によったので、店の名前もカネ辰鈴木洋糖商店と呼んでいた。

大体此の洋糖即ち輸入砂糖は外国人の色々な商館が輸入するのを買受け、各地の砂糖商に卸売したのであるが、同業者の買付競争を避ける為に直輸会社を作っていた。会社と云っても組合のようなもので、組合員は鈴木と丸一糖業、伊藤茂七、藤田助七等であった。

この直輸会社で一括買付けて率を決めて分荷していたが、店は当時藤田と合わせて約六割ぐらいを占めていたように思う。砂糖は(ふぃ)()(ぴん)のマニラ糖、支那人のジャワ糖(キザラ)とドイツ糖、ロシア糖の甜菜(てんさい)糖が来ていた。私が記憶している柳田氏は()の頃此の直輸の仕事と店の監督の仕事で仲々忙しいようであった。

鈴木は此の砂糖の店から段々合名会社となって発展して行ったのであるが、その商売が非常に親切であったと云うので評判となったのは柳田氏の人柄によるところが大であったと思う。それについて次のような話がある。

その頃、北陸の方の或砂糖問屋の主人が、いつも現金をもって砂糖を仕入に来たが、荷物は船に積んで行くので、その度に柳田氏は万一の為に運送保険をつける事を(すす)めたのであるが、その主人は仲々頑固な(ひと)で聴き入れなかった。そこで柳田氏はいつも当方で勝手に保険をつけてやっていた。

所が或時暴風雨でその砂糖船が遭難し、砂糖をすっかり流出して大損害を蒙り、その主人は店へ来て「柳田さんの申されたように保険を掛けて置けばよかったのに」と大変悔んでいた。そこで、柳田さんが「いや、それなら御心配なさるな、荷物にはあなたが要らぬと云われても、私の方で保険はつけてありました」と、それまでの事を話されたので、その買主は踊り上がって喜び、以後砂糖は鈴木の店からだけ買う事を誓ったと云う事である。

此んな調子で一度取引した顧客は永く続き、私の扱っていた山陰、九州方面でも永い取引の顧客は勝手に鈴木洋糖商店の特約店などの看板を上げたりもした。その当時の洋糖というのは粗糖であったが、段々国内でも精糖の需要が出来て、東京、大阪にも精糖会社が出来たりし、粗糖のみでの商売は行詰る形勢となった。

店では香港から入って来る黄双を再製糖と云う半精製糖に作って販売したりしていたが、店の内では一つ精糖工場を作ろうと云う話が持上って来た。当時鈴木も仲々獨力で精糖工場を建設すると云う事になると骨が折れたのであるが、幸い樟脳が高価となり大分大きな利益を得たので、大里(だいり)精糖所を明治三十六年に建設した。大里は能力が二百(とん)であった。

所が当初製品があまりうまく出来ず、出来た砂糖はまるで石のように固くなって大変困った。技師は齋藤と云う老技師と黒川と云う技師もいたが、その不良の原因が(つか)めず(ただ)閉口するばかりであった。

大阪方面では、鈴木が獨力で精糖を開始した事に対して敵意を持つ人もあり、大阪精糖の不二樹専務などは、「鈴木も気の毒だ、大里はすっかり(ただ)の煉瓦にしてしまった」と云ったと云う事で、之が銀行筋に聞え、柳田、金子両氏を始め店内一同の心痛一方ならぬものがあった。

金子氏は最初樟脳の仕事にたずさわり、砂糖の事に関係されるようになったのは大里の此の問題の頃からであるように思う。

一方、既に出来た不良糖始末には実に弱った。阪神地方へ持って来ても頭から問題にされず、販売部員一同の頭痛の種となった。実際そのストックのために運転資金もすっかり寝てしまい、金融難が日々甚しくなって居たのである。

そこで柳田氏は自分で上海まで出張し之を支那で売ろうと発起され、上海の豊陽館という旅館に根據(こんきょ)をかまえ、阿東(あどん)という支那人を買辯(ばいべん)に雇って、上海の華人砂糖業者に運動して此の砂糖をさばいた。幸いにも予想より高価に売付け、滞貨金全部を処分して凱歌を上げて帰国された。

これなど砂糖の販売に柳田氏が如何に上手であったかの一つの例でもあるが、之により資金の回転も始り、店の金融も一安心したのである。その留守中に金子さんは苦心の末、砂糖が固くならないためにはビスコと云うものを加えねばならぬと云う事を探知された。

そこで、大阪精糖の職人を引抜いて雲井通の研究所でビスコ製造の技術を習得し、直ちに大里精糖所に応用した。その為、大里では真白なさらさらした完全なる精糖がどんどん造られるようになり、各店員は大喜びで大変な勢で北海道から九州まで全国に渡り大販売に乗出し、それに応じて能力もそれまでの倍の日産四百屯に増設した。私もこの頃主人のお伴をして各地を廻り、販売網を作ったのである。

面白いのは、店の販売力と云うものは、店員が東京、大阪などの会社の社員と異なり、丁稚より若い者ばかりで経費は安い上に時間をかまわず、売り付けの交渉なども気易かったので、地方の商人にうけて販売面で大日本精糖を圧する勢となった。

そこで、大日本精糖会社もはじめ馬鹿にしていたのが、一転して合併問題を持ちかけて来た。此の当時、私は東京に居たように思う。折衝の結果、大里精糖所を六百五十万円で大日本精糖に売る事になった。その代金は、二百五十万円は現金で、四百万円は担保付社債で受取った。()の当時の六百五十万円の金は大した金額で、世間の評判になったものだ。

鈴木商店が()の後各種の事業に手を出し、飛躍的発展をなしたのはこの金が基礎となったと思う。その後も柳田さんは砂糖の商売には興味を持ち、原糖を輸入して精糖会社へ売る事は続けていたが、主として金子さんの女房役として各関係会社の監督、本店の取締りに力を尽されていた。

資本金五十万円の合名会社から短時日の間に資本金五千万円の大鈴木商店を建設したのには、柳田さんが並々ならぬ大人材であった事を示している。

柳田さんは概して口数の少ない真面目な人であって、当時各商館の番頭連が一般に妾などを持ち大変派手にやっていたのに対照して、非常に地味な点で目立っていた。此の柳田さんの地味な気質が店の独特の気風となって行った。

柳田さんは酒もあまりたしなまれず、芸者などにも全く興味をもたれず、勝負事は殊に嫌いであったようである。ただ、寄席は大変好きでよく行かれたようだし、よく川柳のような句を作られ内面的には面白味のある所もあった。

このように謹直な人柄であったので、銀行方面での信用は非常に大きかった。また、店の中では店員の監督の上に大きな力をもって居り、悪戯(いたずら)(もの)の多かったぼんさん連中も柳田さん現るの報を受ければ、一度に(なり)を静めたと云う事である。(抜粋)


■高橋半助(鈴木商店名古屋支店長、株式会社鈴木商店取締役、帝国汽船取締役、鈴木商店四天王の一人)
吾が師とも父とも尊敬崇拝する柳田冨士松氏は、柳田氏と云うより柳田殿と云うより、やはり柳田さんが相応しい。温厚、淳和、純情、実直で人間味豊かな慈父の感じであった。カネ辰商店に入社して西も東もわきまえぬ十七歳の鼻垂時代から此の年にかけての私を何時も変らず吾が子をいたわり導く如く親切に教えて下さった温か味は今も忘れることが出来ない。

名古屋に住むようになって時々神戸へ行けば必ずお宅で御厄介になったものだが、それは「宿屋へなど行くな」と言われる親の言葉をそのまま受入れて、里帰りした気持ちで家族的のおもてなしを()けたものである。

その御家庭は良きお父様、良き御主人の気分が満ち充ちて、その朗らかさ、和やかさは奥様のピアノが弾き出されると御子様方の踊りが始まるといった調子で、楽しい夕べが過される。然し、お若い時代の御家庭はあまり恵まれた方でなく、二人の奥様を亡くされた上に十人の御子様の内五人も亡くされている。

そうした御心の奥に出来たであろう悩みはトントあるようにも見受けられず、日常接する柳田さんの打ちとけた温顔(おんがん)、物静かなお話ぶり、ふくよかな御容姿は何となしに親しみ易く惹き付けられるものがあった。

鈴木王国二つの宝、金子直吉氏に柳田さん、龍虎とでも云うか、その金子さんは何処までも良人(りょうにん)の立場、世界的な大きな事業の遣放(やりっぱな)し、柳田さんは忠実温良な奥さんの立場で文句一つ言わずにコツコツと跡始末する。この理想の夫婦の睦ましさと云ったら世にも珍しい一大宝鑑(ほうかん)とも云えるだろう。

私の五十年近くその支配下にあった間、ただの一度もどちらの陰口を聞いた事がない。表面は兎も角も、同じ立場で同じ仕事をしておれば大抵は必ず不平不満も出るもの、意見の衝突もありお互いに陰口を利くものだが、この二人の結束はガッチリとして寸毫(すんごう)の隙もなし、不満不足の気配さえなかった。

双方の呼吸がピッタリと合っていたからで、正にこれが不思議な天の配剤であったと同時に、この不思議な結合は又一鈴木を造り成した最大の原動力であったと思う。鈴木よね子氏の「お家さん」を中心にして実に円満明朗、そしてたゆみなき元気な活躍で彼の大鈴木商店の大所帯は築き上げられたのであった。

しかも、その源流を遡って見るとお二人ともお心持が何処までも清廉潔白で深い修養もあり、互に譲り合って行かれた為で、学ぶべきもの多きを痛感する。(抜粋)

以上、「柳田富士松傳」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より

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