柳田富士松に関する関係者の言葉シリーズ③「鈴木商店の元社員の言葉」
事業では "堅実" を信条とし、金子直吉の女房役としても店の陣営を微動だにさせず
■賀集益蔵(鈴木商店経理担当、三菱レイヨン社長・会長、日本化学繊維協会会長)
私は当時鈴木商店経理部で金融業務を担当していたが、大正11年より12年の関東大震災以後の日本事業界は世界大戦時の好況反動と震災の影響から不況の一途を辿り、更に時の政府の緊縮政策が之に拍車をかけ、金融は極度に窮迫したので鈴木商店も金融の受難時代であった。私は連日金策に奔走したが、時には万策に窮する事があった。
私も力に及ばぬ時は金子さんに相談すると、吾々金融担当の常識を超越した金策方法を授けられる。私は腹の中で随分無理な策だと思うことがあったが、窮余の一策と考えて努力と熱意でこれに邁進すると、期待した以上に成果を収めた実例は沢山あった。
此の金融苦難時代に金策奔走に疲れて此の打開に苦慮している時、柳田さんに激励され又心から慰労して下さった。特に店務繁忙の場合は、私生活に迄心尽して下さる親切に感激して、私は一日の労苦も忘れて翌日の活動を期待していた。金子さんは吾々店員の偉い父であり、柳田さんは慈しみの母である感じであった。(抜粋)
■上村政吉(鈴木商店大阪支店長兼砂糖部長)
明治四十二年、神戸本店に入店して半年足らずで門司支店の砂糖麦粉の係として勤務することになった。大日本製糖が大里製糖所を買収した翌々年で、‥‥ その頃から鈴木の北九州における企業計画や事業の進展は素晴らしいものであった。麦酒会社は出来た、製粉会社も建った。あの草茫々たる浅野半島がいつの間にかその面影を一変して行った。
大正三年、大阪の砂糖部に転任して以後は柳田さんの直轄下で業務にいそしんだ。柳田さんは砂糖に苦労し、尊き経験を持った人であった。柳田さんは毎日又は隔日午後には必ず大阪支店に見えた。
明治二十年頃から大阪市場は神戸鈴木にとりては大事な市場であった。支那の赤糖や板糖などの外に神戸には香港糖が盛んに輸入され、その販売は完備した販売網を持つ大阪堺筋の仲買商を利用した。此の古い関係から柳田さんと大阪の砂糖市場とは永い繋りをもち、従って大阪支店は当時砂糖が主要な取扱種目であった。
柳田さんは堅実主義で、商売は地味な方であった。大きく儲けない代りに損をしないという建前であった様に思う。私等の入店当時は台湾赤糖の盛んな時で、買付販売に対する柳田さんの各地向指令のコッピーをよく見たものである。よく勉強されていた。
その後台湾糖業が盛んとなり、鈴木の積極進出は北港製糖、東洋製糖と発展し、他方塩水港精糖、大日本製糖の代理店としてジットしていても相当に口銭はころげ込む時代が続いた。柳田さんはいつも言っておられた。君達はいつもいらぬ思惑をして代理口銭を吐き出していると。事実その通りの事が多かった。
砂糖の商売は各支店を通じ柳田さんの指図支配下にあったが、地味堅実な柳田式に御大金子さんの積極性が潜んでいたことは事実であった。然し、内地商売は結局実直主義が長い目で勝利であった。海外の国際貿易が盛んになり、爪哇糖を中心に鈴木が世界市場に進出する様になって以後は内地糖も専らこれに支配された。従って柳田さんは外糖思惑とにらみ合わせ苦労は多かったと思う。柳田さんは部下を信用したら時々注意するだけでよく任された。
砂糖は柳田翁の一生の恋人であった。恐らく寝てもさめても翁は砂糖のことを忘れた日とてはなかったであろう。第一次世界大戦勃発以来、鈴木が国際的砂糖市場に進出して倫敦、ニューヨークを中心とする世界相場に激浪の中に各主要地に散在する支店出張所との連携により主として爪哇砂糖の輸出入貿易の外国商業の進出発展に万丈の気をはき、我国貿易の受取勘定に寄与せしことは未だ記憶にあらたなところである。
海外より集る電報と相場は、為替は、手持数は、船繰りは、相場の前途は、売りて買うか、買うて売るか、金繰りはと此の複雑な処理、寸刻を争う決断。これ等の総元締めたる翁の苦心は言語につくすことの出来ないものがあったと思う。又国内的には台湾の製糖業に深く関係する外、内地製糖会社の原糖輸入の大部分の実権を握っていた。右手に台湾糖を押え、左手に海外相場を掴む。此の時代の翁の苦労は想像できるが一面翁の得意の時代でもあった。
翁の道楽は砂糖商売以外には無かった。翁の活躍時代、砂糖会社や砂糖問屋には酒と女道楽が一つの誇りのように云い伝えられたものである。けれども、翁は身体の具合もあったであろうが酒はきらいな方で、飲まれても至極少量であった。女道楽など聞いたこともなければ見たこともなかった。私欲私心のない翁はただ主家繁栄を希う一点に努力が集中された以外には何ものもなかった。
私は翁に接する毎におのずと翁の感化を受けた一人である。同業者に私腹を肥すものを見せつけられても決してそんな気は起らなかった。翁の下に働いた遠い過去を追想して当時あらゆる誘惑に打克ち得た心の誇りを感ずるとともに、翁の感化を深く感謝するものである。翁は常に商売は腹八分ということを厳に誡められていた。
翁は嘘をつくことを大変嫌われた。実直な人だけに数字的に嘘でもあったらとても機嫌が悪かった。しかし、商売も理由さえ立てば買過ぎ、売越しも認められたが、何れにせよ腹八分は厳重に守ることであった。翁は私どもに商売は決して派手にやるな。地道で行け、大きな儲けを望むより決して損しないことを心がけよ、と常に言い聞かされた。
鈴木の国際貿易にしても、金子翁の積極性に柳田翁の地道な行き方が十分に加味され、初めて素晴らしい好成績をあげたものと思う。大正9年の国内パニックには同業者の安部幸、増田屋の倒潰を見たが鈴木は噂に反し、あくまで踏ん張り得たのも全く翁の日夜苦心した砂糖収益のおかげだったともいい得るであろう。
明治以来、我国の砂糖業への貢献、砂糖輸入貿易と国際貿易の進展に堂々と戦われた翁の砂糖に対する功績は偉大なものがあった。(抜粋)
■亀井英之助(鈴木商店社員)
明治四十二年、私が鈴木商店に入店以前から店の一枚看板たりし砂糖の取引は柳田冨士松氏の主宰する所であった。神戸本店砂糖部には先輩松原清三氏がおられ、茲で見習中、翌年春砂糖本部は大阪支店へ移転する事となった。
爾来、柳田重役は毎日午前中は神戸本店にて外国電報を検閲、午後は大阪支店へ見えられて台湾、上海、内地の各支店へそれぞれ指図せられた。当時本部には高橋半助氏、神戸には谷氏(谷治之助)、東京には窪田氏(窪田駒吉)、台湾には平高氏(平高寅太郎)、小樽には志水氏(志水寅次郎)、門司には石田氏等々一騎当千の練達の士が控え、勇将の指揮下に奮闘し、時恰も逐年増産の台湾糖と他面内地消費糖増嵩の機運と相俟って、花々しき商戦を展開した。
後年鈴木商店が世界の砂糖商として、ロンドンの高畑支店長を通じて英米市場の巨商と渡り合い、我国在外正貨蓄積の一端を果したのも全く翁の永年の経験と果断に負う所にして、嚢中の錐自らその一端を顕わしたものと思う。
商店が資力の増大に伴い、殊に第一次世界大戦を機として事業界多方面に拡大したに拘らず、翁は商店の柱石として重大事項の相談を受けられる以外は外面に立たれず、名利は眼中になく、何事も主家第一で終始砂糖部の牙城に全力を尽し、全く一人一業主義を実地に示現せられた。
周到なる注意力、繊密なる頭脳、加之多年の経験を以て不眠不休の滅私奉公振りを発揮せられたから事業の堅実なる発展は申すに及ばず、部下の勤務振りも自ら正さざるを得なかった。酒も煙草も嗜まれず家庭は平和円満、当時の実業家としては珍しき品行方正の方であった。(抜粋)
以上、「柳田富士松傳」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)より
■山地孝二(鈴木商店社員、世界各地への移動出張員)
昔の鈴木商店をして一時期に於いて老舗を誇る三井三菱を圧するのはもとより、世界的にも大をなさしめたのは金子、柳田両翁の名コンビがあったからだとは当時は勿論、今日に至る迄広く世間に言い伝えられて居る事実ですが、僕が親しく柳田翁に接し得たのは明治三十七年頃、鈴木が上海に初めて海外支店を開設した時でした。
それ迄はロンドンには日向利兵衛氏が基礎を造り、次いで芳川筍之助氏、高畑氏に至って支店に昇格したのだと聴きました。
当時僕は田宮嘉右衛門氏に従い門司市外大里に建設中の大里精糖所に転勤して居ました。因みに田宮氏は既に神戸葺合樟脳精製所の若き工場長として其の非凡な工業経営の才を金子、柳田両翁から高く評価されて居たので、いち早く新設の大里工場へ両翁の信条を担って赴任されたのでした。
そして上海支店へ先鋒として乗り込まれたのは僕の敬愛する森衆郎氏、香川潔氏等でしたが、僕も地理的条件もあって抜擢されて初陣に加わるを得ました。処が支店開設間もなく其の状況視察の為、柳田氏は井原五兵衛氏を従えて出張され、およそ半ケ年程?御滞在になられましたので、その間図らずも翁の謦咳に接する機会に恵まれた次第です。
当時翁は故意に旅館への宿泊を見合せられ、支店員と寝食を共にせられたのですが、翁の日常の御起居は頗る規則正しく、しかも店員の細かい処に迄能く意を遣われ、厳重なる反面常に暖き愛情を以て接せられ、短期間でしたが志那人職員、ボーイ、車夫に至る迄全く慈父の如く御慕いして居りました。
或時の如き、僕が毎日の銀行や商用で使い歩きをするのを見て不便だろうと、それ迄に屢々懇請して実現出来なかった自転車(当時はまだ上海でさえ珍しく、社宅の近所の外人の子供達は珍しがって見て居た程でしたが)を早速買って戴いた事が記憶に残って居ります。
金子翁の活動的な反面無情に迄見える御性格に対し、常に小僧に至る迄店全体の者に対して暖く気を付けて居られた事は、店内の人心を常に鈴木に引付けて居られた原因と思います。その後、僕が海外へ出張する様になっても帰国の都度慈父の暖か味を以て慰労激励され、此店の為にはと常に緊張を覚えたものです。勿論、私のみでなく店全体の者が此様な御扱いを受けたものです。
金子翁が後顧の憂なく大に世界的に活躍され得たのも女房役の柳田翁が陣営を微動だにさせず、固く守って居られた事があずかって大に力あった事と今にして痛感するのです。
之は話が外れますが、或時私が海外出張から帰来した時、店の受付にて(故松本氏と思う)咎められて居た時、偶々御家様が御供を従えてはいって来られ、私を見て「山地何時帰って来た。早う御はいり」と云われて大に面目を施した時の事を思い浮べ、私が遊撃手として常にあちこちと出張やら赴任やらで彼是十余年もの間御目に懸かって居ないにもかかわらず顔を記憶して居られて声をかけて下さったのであるが、柳田翁が御家様の感化に依るところ多く、元々暖かい血の繋がりを引いて居られたのだとひそかに思ったことでした。
以上、辰巳会・会報「たつみ」第3号(昭和40年5月1日発行)より